併合の実施とは? わかりやすく解説

併合の実施

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:23 UTC 版)

共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事における「併合の実施」の解説

自立したセルビア王国では「大セルビア主義」が拡大し、この実現のため海へ出口求めてセルビア人住民多く住むボスニア・ヘルツェゴビナ狙った。 エーレンタールはこうした動き危機感覚えセルビア王国への打撃模索したセルビア王国オーストリア=ハンガリー帝国ブルガリア公国分割するという計画挙がったがこれは採用されず、実践的な計画としてボスニア・ヘルツェゴビナの併合挙げられた。しかし行政権移って以来オーストリア=ハンガリー帝国による統治利益は、近代化不徹底故に大きくはなかった。そこで併合肯定派はこの不徹底こそボスニア・ヘルツェゴビナオーストリア=ハンガリー帝国領でないが故のものである主張し併合によって施策はより徹底されるものと考えた。 こうしてオーストリア=ハンガリー帝国ボスニア・ヘルツェゴビナ併合選択し、エーレンタールは1908年9月併合前段階としてロシア帝国交渉行ったロシア帝国外相イズヴォリスキーが日露戦争で傷ついたロシア帝国威信回復考慮して早い交渉実現にも気を配っていたこの交渉において、ロシア帝国ボスニア・ヘルツェゴビナの併合承認し見返りオーストリア=ハンガリー帝国ロシア帝国海軍のボスポラス・ダーダネルス両海峡通過支持することが約された。こうしてロシア帝国による賛成取りつけ上で1908年10月5日ボスニア・ヘルツェゴビナ併合された。 またこの際主権国であったオスマン帝国には、ノヴィ・パザルからの撤兵250ポンド償金によって併合承諾させた。

※この「併合の実施」の解説は、「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の解説の一部です。
「併合の実施」を含む「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事については、「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の概要を参照ください。

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