併合の実施
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「共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の記事における「併合の実施」の解説
自立したセルビア王国では「大セルビア主義」が拡大し、この実現のため海への出口を求めてセルビア人住民が多く住むボスニア・ヘルツェゴビナを狙った。 エーレンタールはこうした動きに危機感を覚え、セルビア王国への打撃を模索した。セルビア王国をオーストリア=ハンガリー帝国とブルガリア公国で分割するという計画も挙がったがこれは採用されず、実践的な計画としてボスニア・ヘルツェゴビナの併合が挙げられた。しかし行政権が移って以来のオーストリア=ハンガリー帝国による統治の利益は、近代化の不徹底故に大きくはなかった。そこで併合肯定派はこの不徹底こそボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリア=ハンガリー帝国領でないが故のものであると主張し、併合によって施策はより徹底されるものと考えた。 こうしてオーストリア=ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナ併合を選択し、エーレンタールは1908年9月に併合の前段階としてロシア帝国と交渉を行った。ロシア帝国外相イズヴォリスキーが日露戦争で傷ついたロシア帝国の威信の回復を考慮して素早い交渉の実現にも気を配っていたこの交渉において、ロシア帝国がボスニア・ヘルツェゴビナの併合を承認し、見返りにオーストリア=ハンガリー帝国はロシア帝国海軍のボスポラス・ダーダネルス両海峡通過を支持することが約された。こうしてロシア帝国による賛成を取りつけた上で、1908年10月5日、ボスニア・ヘルツェゴビナは併合された。 またこの際、主権国であったオスマン帝国には、ノヴィ・パザルからの撤兵と250万ポンドの償金によって併合を承諾させた。
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