併合前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:59 UTC 版)
1907年に集団として直接的に恨を表現する様子を宣教師のウィリアム・ブレアがはじめて観察しているが、これは韓国の恨の文化が対外的にはじめて認知された一例である。それは苦痛を伴う告白(悔悟)による忘却の促進と魂の浄化(再生)を担っていた。 併合後、日本の同化政策に批判的であった柳宗悦は当時の底辺階級を文化的に引き上げることを芸術面で目指したが、却って韓国人は文化面における伝統の欠如、自我自主意識の没却に直面することとなった。同化政策の中にあって自己喪失への恐れは独立運動の度重なる失敗と挫折により韓国人の悲しみを伴った自己希求「恨」を更に強く刻む結果になった。以後、メディアや政権側で共通の悲しみを通して連帯を生むため、不平等を受容させるために文化面だけでなく政治的に利用されていくこととなる。 不幸な歴史に対する前向きな忘却を果たしていた個人的民衆的「恨の文化」は、忘却を恐れることで劣等感を記憶し相対的剥奪感を受け入れ維持させる集団的なものへと変化し、経済格差や南北分断など恒常的な不安定環境がその表現範囲も複雑化させていった。
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