明治以降の飴売り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 18:18 UTC 版)
明治時代以降、唐人笛を鳴らす飴売りは日本各地に点在するようになり、唐人笛(チャルメラ)は飴売りのシンボルとなっていった。明治期に各地にいた飴売りはチャルメラを鳴らすものの、例えば池辺義象が明治40年(1907年)に著した絵入りの歌集、『当世風俗五十番歌合』上巻第13番にある「飴売り」の絵に見られるように江戸時代に見られた派手な唐人の格好はしていない。 明治期の文学作品にも飴売りについての描写がある。石川啄木は代表作『一握の砂』の中に「飴売りの チャルメラ聴けば うしなわし おさなき心ひろへるごとし」という一節がある。島崎藤村も『破戒』や小品集『千曲川のスケッチ』や、小泉八雲の短編『コレラ流行期に』にも飴売りの記述がある。 この時代になると朝鮮半島から朝鮮人が労働者として来日し、その中から飴売りに転じる者もいた。朝鮮半島でもヨッカウイ(飴鋏/엿가위)と呼ばれる刃のない金鋏を鳴らして客を呼ぶ伝統的な飴売りがいて現代でも韓国民俗村などの観光施設で見ることができるが、日本で活動していた飴売りはこうした伝統的なものではなく、朝鮮人ないし日本人の親方が部屋住みで労働者を囲い販売させた日本風の飴売りであった。 やがて韓国併合前後から日本語が話せなくても出来る商売ということで、大阪や神戸では明治42年(1909年)9月3日付けの大阪毎日新聞には、「近頃になって段々人数が増し、此頃では市内を歩いて居ると必ず二三人の飴屋に出喰わす程になった」とあるほどに急増した。だが、こうした飴売りも併せて売っていたくじ引きの規制や、日本人とのトラブル、そして第一次世界大戦後の好景気による労働者不足にともなう転職によってその数を減らしていった。
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