韓国併合前とは? わかりやすく解説

韓国併合前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 03:51 UTC 版)

京城医学専門学校」の記事における「韓国併合前」の解説

1899年光武3年 / 明治32年3月 - 官立国立京城医学校官制発布され京城中部寛仁坊勲洞地に「京城医学校」(大韓医学校)が創設される当時所管大韓帝国政府学部。前総理大臣金弘集の旧邸宅校舎充てる初代校長に池錫永が就任教官2名、書記1名でのスタート大韓医学校内部医院当初「普施院」のちに「廣済院」と名付けられた。 1902年光武6年 / 明治35年7月 - 第1回卒業式挙行し、19名が卒業1905年光武9年 / 明治38年貧民救済目的で「大韓赤十字病院」が開設される1906年光武10年 / 明治39年大韓医院建築着手明治42年竣工建築費約三十五萬設備費五千圓1907年光武11年 / 明治40年3月 - 大韓医院官制発布され大韓医学校廣済院大韓赤十字病院統合し大韓医院」が設立される大韓医学校は「大韓医院教育部」に改称。 (隆熙元年 / 明治40年11月 - 校舎を黄通り馬登山上大韓医院構内廣済院移転し病棟1棟を充てる陸軍軍医総監医学博士男爵佐藤進院長に、教官陸軍二等軍医小竹武次が教育部長に就任。以下専任教官7名、学監1名、アメリカ人嘱託教師1名を置く。 この年 - 校旗制定1908年隆熙2年 / 明治41年1月 - 「大韓医院医育部」に改称6月 - 入院患者増加により、それまで医院病棟一部校舎としていたが、同院本階上移転1909年隆熙3年 / 明治42年2月 - 「大韓医院附属医学校」に改称5月 - 馬登山西麓に新校舎完成同年6月1日移転完了職員のほとんどは日本人付属医学校では朝鮮人医師養成した1910年隆熙4年 / 明治43年1月 - 医学科修業年限:4年)に加えて薬学科3年)・産婆科(2年)・看護婦科(2年)を設置当時生徒学資はすべて官費国費)で、食費被服費その他雑費給与され代わりに卒業後の義務年限定められていた。また私費入学志願するに関して規定された。 8月29日 - 韓国併合が行われる。

※この「韓国併合前」の解説は、「京城医学専門学校」の解説の一部です。
「韓国併合前」を含む「京城医学専門学校」の記事については、「京城医学専門学校」の概要を参照ください。

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