韓国併合前
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1899年(光武3年 / 明治32年)3月 - 官立(国立)京城医学校官制が発布され、京城中部寛仁坊勲洞地に「京城医学校」(大韓医学校)が創設される。当時の所管は大韓帝国政府学部。前総理大臣、金弘集の旧邸宅を校舎に充てる。 初代校長に池錫永が就任。教官2名、書記1名でのスタート。 大韓医学校の内部医院は当初「普施院」のちに「廣済院」と名付けられた。 1902年(光武6年 / 明治35年)7月 - 第1回卒業式を挙行し、19名が卒業。 1905年(光武9年 / 明治38年)貧民救済目的で「大韓赤十字病院」が開設される。 1906年(光武10年 / 明治39年) 大韓医院の建築着手、明治42年竣工。建築費約三十五萬圓設備費六萬五千圓。 1907年(光武11年 / 明治40年)3月 - 大韓医院官制が発布され、大韓医学校、廣済院、大韓赤十字病院を統合し「大韓医院」が設立される。大韓医学校は「大韓医院教育部」に改称。 (隆熙元年 / 明治40年)11月 - 校舎を黄橋通り馬登山上の大韓医院構内の廣済院に移転し、病棟1棟を充てる。陸軍軍医総監医学博士男爵佐藤進が院長に、教官陸軍二等軍医正小竹武次が教育部長に就任。以下専任教官7名、学監1名、アメリカ人嘱託教師1名を置く。 この年 - 校旗を制定。 1908年(隆熙2年 / 明治41年)1月 - 「大韓医院医育部」に改称。 6月 - 入院患者の増加により、それまで医院病棟の一部を校舎としていたが、同院本館階上に移転。 1909年(隆熙3年 / 明治42年)2月 - 「大韓医院附属医学校」に改称。 5月 - 馬登山西麓に新校舎が完成。同年6月1日に移転完了。 職員のほとんどは日本人で付属医学校では朝鮮人の医師を養成した。 1910年(隆熙4年 / 明治43年)1月 - 医学科(修業年限:4年)に加えて薬学科(3年)・産婆科(2年)・看護婦科(2年)を設置。当時、生徒の学資はすべて官費(国費)で、食費・被服費その他雑費は給与される代わりに卒業後の義務年限が定められていた。また私費で入学を志願する者に関しても規定された。 8月29日 - 韓国併合が行われる。
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