韓国併合以前
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朝鮮国王高宗の五男として誕生する。母は貴人張氏。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王となった李垠がいる。 1892年1月に義和君となり、翌1893年に金思濬の娘と結婚する。1894年に日清戦争の祝賀使として日本に訪問した。翌年には欧米各国を歴訪した。その後、慶應義塾大学やアメリカの大学に留学した。その間に朝鮮は大韓帝国となり、義親王に封じられた。 1905年に帰国し、翌年に大韓帝国最高位の勲章である大勲位金尺大綬章が授与された。
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韓国併合以前
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朝鮮国王高宗の五男として誕生する。母は貴人張氏。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王となった李垠がいる。幼名は平吉(ピョンギル)。朝鮮王朝の慣例では、国王の庶子は世子が10歳になるまで宮中に入ることはできなかったため、哲宗の女婿朴泳孝のもとで育てられた。その後も興宣大院君の反対でなかなか王子として認知されず、庶民的な生活を強いられた。素行は荒れ、市中の無頼とも付き合うようになったという。 数え年16歳となった1892年の1月28日にようやく義和君の称号を与えられ、宮中に伺候できるようになった。翌1893年に金思濬の娘と結婚する。1894年に日清戦争の祝賀使として日本に訪問した。1895年8月にはヨーロッパに対する特派大使に任じられていたが、10月2日に依願免官していた。10月8日に乙未事変が発生すると、翌日李堈はアメリカ人宣教師の家に避難した。10月13日には再び特派大使に任じられ、10月27日に日本に向けて出国した。父の高宗によれば、李堈は閔妃を殺したのは大院君の一家の陰謀によるものだと考えており、大院君一家への陰謀を企てていたのが露見したためであったという。朝鮮政府は帰国を命じたが、李堈は勅命でなければ応じないと抵抗し、大使の任を解かれて留学生の身分で日本に滞在することとなった。 日本での李堈の生活は模範的なものではなく、朝鮮の伝統的な服装で訪問した朝鮮の官僚の髷をいきなり切り落とすという行動に出ることもあった。1896年1月26日には高宗の依頼で福沢諭吉が監督役となったが、夜遊びや散財を繰り返すなどその生活は改まることなく、アメリカ留学が命じられた。 1897年5月22日に日本を出国し、翌年に一旦帰国して再度渡米した。1900年に朝鮮は大韓帝国となり、義王に封じられた。さらに1901年にはロアノーク大学に入学した。アメリカでも3人の女性との恋愛沙汰が報じられ、1903年3月1日には「アメリカ人の自由とアメリカの独立に魅了され、祖国の王冠を放棄する」という声明を『ニューヨーク・ヘラルド』紙に公表した。 1905年2月には日本に戻ったが、高宗はアメリカ留学中の評判が極めて悪かったことから、伊藤博文か井上馨の監督でもう3~4年留学させられないかと要請している。1906年4月に帰国し、大韓帝国最高位の勲章である大勲位金尺大綬章が授与された。翌年に兄の純宗が即位した際も、皇太子には任ぜられなかった。
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韓国併合以前
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「在日韓国・朝鮮人の歴史」の記事における「韓国併合以前」の解説
韓国併合以前の在日韓国朝鮮人在留者数西暦和暦人数1883年 明治16年 16 1884年 明治17年 1 1885年 明治18年 1 1886年 明治19年 0 1887年 明治20年 6 1888年 明治21年 7 1889年 明治22年 8 1890年 明治23年 9 1891年 明治24年 6 1892年 明治25年 5 1893年 明治26年 7 1894年 明治27年 7 1895年 明治28年 12 1896年 明治29年 19 1897年 明治30年 155 1898年 明治31年 71 1899年 明治32年 188 1900年 明治33年 196 1901年 明治34年 355 1902年 明治35年 236 1903年 明治36年 224 1904年 明治37年 233 1905年 明治38年 303 1906年 明治39年 254 1907年 明治40年 459 1908年 明治41年 459 1909年 明治42年 790 1910年 明治43年 不明 1911年 明治44年 2527 1912年 大正元年 3171 1876年(明治9年、高宗13年)、日朝修好条規が結ばれ、「隠者の国」と呼ばれた朝鮮が開港・開国、1880年、金弘集らが第二次朝鮮通信使として来日、東京に朝鮮公使館が設置される。 その後、留学生や亡命者などが少しずつ入国し始める。この時期来日した著名人は、1884年(明治17年)(甲申政変)、1895年(明治28年)と二度に亘って日本に亡命し、併合後は朝鮮貴族となり、朝鮮総督府中枢院顧問, 副議長、貴族院議員などを勤めた朴泳孝、1882年、慶應義塾などで学び、甲午改革失敗後1894年上海で閔妃の刺客に斃れた金玉均、金玉均を暗殺するために来日した宋秉畯、閔妃暗殺に係わったを禹範善を日本で暗殺した高永根、独立協会を結成した尹致昊、徐載弼、1905年、1915年と2度に亘って留学し、1919年の「二・八独立宣言」の起草に加わった李光洙、日本への留学、亡命後、三・一独立運動の「独立宣言書」の起草に係わった崔南善、崔麟、孫秉煕、呉世昌、権東鎮などがいる。 なお、1897年までの国名は大朝鮮國、1897年から1910年までの国名は大韓帝國である。
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