アメリカの独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 09:02 UTC 版)
「アメリカ合衆国の保守主義」の記事における「アメリカの独立」の解説
21世紀のアメリカ保守派は、建国の父達に対する強い憧憬を表明し、その価値観とみるものへの帰還を要求している。歴史家はこの価値観を「共和主義」と呼んでいる。このような主張にメディアも大きな注目を浴びせてきた。アメリカ独立戦争の当時、イギリスの支配下にあった植民地人は、ヨーロッパ人の世界においては最も自由な政府の下で生活していた。彼らはその歴史ある権利を守り保とうと激しい決断を下した。1750年代までに、大半のアメリカ人は土地を所有し、地方政府を支配する選挙で投票できた。地方や植民地の税金は安く、イギリスから徴収される税金も少なかった。 しかし、イギリス帝国に結び付けられた大きく強力な要素もあった。例えば富裕な商人は国際貿易に従事し、イギリスからの役人や利権保持者がいた。イギリス王室に忠誠なままだったものたちはロイヤリストあるいは「トーリー」と呼ばれた。ロイヤリストは、革命的な変化に対して既存の帝国を守ろうとしたことで「保守的」だった。その指導層は、秩序を愛し、優れた者を尊敬し、劣った者を見下し、遠くの貴族制による支配よりも身近にいる暴徒による民主的支配を恐れた富と資産を持つ人々だった。アメリカ人として昔からある権利を守るか、国王に対して忠誠であるかという選択を求められたとき、彼らは国王と帝国を選んだ。独立戦争後、約7万人のロイヤリストが新生アメリカ合衆国を離れ、大半はまだ自分達がユナイテッド・エンパイア・ロイヤリストと呼ばれていたカナダに移った。 独立戦争を戦った愛国者はイギリス国民としての伝統的な権利を守るという名目で参戦した。特に「代表なくして課税なし」という権利が重んじられた。急速に成長する植民地に対しイギリスの議会が課税し支配しようとしたことに対し、反対が強まっていった。1773年のボストン茶会事件の後、イギリスがボストン市に重い制裁を加えると、愛国者達は植民地ごとに纏まり、戦う準備を始めた。1775年春に戦争が始まり、13植民地全てがイギリスからの役人を追い出すために集まった。各植民地は大陸会議を形成し、それが事実上全国政府となり、ジョージ・ワシントンの下に軍隊を立ち上げ、フランスからの支援を獲得し、1776年7月には「アメリカ合衆国」として独立を宣言した。愛国者達は共和主義の概念で共通意識を持ち、それによって(国王ではなく)人民が主権者となり、あらゆる市民は法的に平等な権利を持ち、選挙で選ばれた議会が法を作り、権利を継承し、軍を設立し、教会は拒絶し、王室政治にあった類の腐敗は拒絶された。 ラバリーは、独立に反対したロイヤリストを基本的に保守にした8つの特徴を挙げた。心理的に彼らは年をとり、身分が確立され、革新に抵抗した。彼らは合法の政府である王室が道徳的に悪であるという考え方に抵抗した。愛国者が家を燃やしたりリンチを行ったりする暴力に訴えると、疎外感を抱いた。彼らは中道を取ることを望み、愛国者がその反対の立場を宣言するよう強制すると怒りを感じた。(事業や家族のつながりを通じて)昔からイギリスに対する感情的親近感があった。独立はいずれやってくるものと先送りにする者であり、その時節を先に延ばすことを欲した。暴徒支配(衆愚政治)から来る無政府状態や専制政治の可能性に気づき、それを恐れる者だった。最後に、愛国者が示した未来について自信の持てない悲観論者だった。戦後共和主義の原則を進んで受け入れたロイヤリストは80%が国内に留まり、受け入れを拒否した者はその保守主義を保ったままイギリス帝国の他地域に移った。革命の新しい原則はあらゆる関係者からアメリカ政治的価値の中核と認められ、それ以降現在アメリカ保守主義と呼ばれるものの中核的原則の一部となった。 アメリカ独立は保守派エリート層の古いネットワークを破壊した。王党派役人、金持ち商人、および土地を所有していた郷士が多く出国したことで、植民地の大半を支配してきた階層的ネットワークを破壊した。例えばニューヨークではドランシー、ドペスター・ウォルトンおよびクルーガー家の主要メンバーが出国したことで、ハドソン川流域の大半を所有し支配していた家族間の絆を弱化させた。同様にペンシルベニアでは、ペン、アレン、チュー、シッペンといった強力な家族が出国し、古い上流階級の団結が無くなった。新しい者達が裕福な商人になったが、彼らはエリート主義に置き換わった共和主義の平等性という精神を共有しており、その後アメリカ人が強力な上流階級を再生させる動きは無かった。ボストンのある裕福な愛国者は1779年に、「5年前に私の靴を清めていたヤツが財産を蓄え、二輪馬車に乗っている」と記していた。ロイヤリストの大多数はアメリカに留まり、新しい共和国に忠誠だった。その大半は政治を避けた。確かにイギリス帝国への回帰を求める復古運動を行うことは無かった。例えばロイヤリストのサミュエル・シーベリーは政治を棄てたが、アメリカ合衆国では最初の聖公会司祭となり、依然として階級社会、伝統および歴史ある礼拝を賞賛してはいるが、国王への連帯を諦めていた家庭にアピールする教会を再建した。
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