アメリカの砲艦外交への対応
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「シャルル・ド・ヴァリニ」の記事における「アメリカの砲艦外交への対応」の解説
1867年2月9日に、アメリカの軍艦ラカワナ(英語版)(USS Lackawanna; 艦長: ウィリアム・レイノルズ(英語版))がハワイに来航した。ラカワナ号は、フランスがハワイ諸島を奪うという噂があるとして、ホノルルに居座った。ハワイ政府はアメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・ヘンリー・スワードに抗議した。スワードは当時、「アラスカ購入」を終えたばかりであった。ホノルルでは、アメリカのハワイ侵攻準備は完了している、島のアメリカ人が侵攻の手引きをする手はずが整っている、などといった噂が渦巻いていた。1867年8月28日、ラカワナ号の艦長レイノルズは、ミッドウェイ環礁の領有を宣言した。 こうした状況下で、ラカワナ号の士官の一人が王国政府に手紙を送り、艦内で反乱が企てられている恐れがあると訴えた。ヴァリニはその手紙をアメリカ国務省に転送したところ、国務省はその士官を逮捕するようハワイ王国に要請した。1868年3月にハワイ島で火山活動が活発になり、4月には大規模な地震が発生した(1868年ハワイ地震)。津波が発生してハワイ諸島全域で被害が出た。ヴァリニは被災地への援助物資輸送を組織した。1868年5月6日、ラカワナ号はサンフランシスコに帰港し、士官が軍法裁判にかけられることになった。士官は有罪になったが刑の執行は秘密裡に猶予された。軍の体面を保つためかもしれない。 ハワイ王国外務大臣シャルル・ド・ヴァリニは、ヨーロッパ列強との間で相互主義(互恵主義)に立脚した基本条約を結ぶため、特命全権大使として1868年の後半に渡欧、フランスに帰国した。しかしながら、普仏戦争が原因で交渉は遅々として進まず、1869年6月19日に、ロシア帝国と短い条約を一つ結んだだけに終わった。ヴァリニは北ドイツ連邦、デンマークともそれぞれ個別に条約交渉をしたが、いずれもハワイ王国との相互主義に同意しなかったため不調に終わった。特命全権の有効期限は1869年11月までであった。ヴァリニは11月が過ぎても、ハワイに戻らずフランスで外交使節として動くことを希望したが、ハワイとの連絡手段がなく、1870年秋になってはじめてハワイと連絡することができた。外務大臣(英語版)職はチャールズ・コフィン・ハリス(英語版)が引き継ぎ、ハリスがやっていた財務大臣(英語版)職はジョン・モット=スミス(英語版)が引き継いだ。ハリスはアメリカの公使エドワード・ムーディ・マクック(英語版)と暫定条約を結んだ:233。 ヴァリニは1873年から外交評論雑誌『両世界評論』に、自身のハワイでの体験を投稿し始め、翌1874年には『サンドウィッチ諸島での14年間』として本にまとめた。ヴァリニの手記は1863年から1868年のハワイ王国の外交政策に関する一次史料になっている。 ヴァリニは、1899年11月9日、パリ郊外のヴァル=ドワズ県モンモランシで亡くなった。1855年に生まれたヴァリニの息子、アンリ(フランス語版)は生物学者になり、チャールズ・ダーウィンの評伝のほか、進化論について議論した著作がある。アンリは1934年に亡くなった。ヴァリニには、娘も2人いた。
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