侵攻準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:37 UTC 版)
「フランスのアイルランド遠征」の記事における「侵攻準備」の解説
ヴァンデの反乱が終わってスペインとの和約が結ばれ、多くのフランス兵たちは、1796年10月末に設定された、オッシュ将軍指揮によるイギリス侵攻計画への準備を整えた。オシュはすぐれた指揮官であり、ヴァンデの王党派に完勝して、その後に予定されていたコーンウォール侵攻にも参戦した。この遠征では、熟練した兵と、大西洋岸の大軍港ブレストを基地とした、大西洋艦隊一式がオッシュの思いのままになった。侵攻のための兵士の数は定かではなかった。総裁政府は2万5千の兵が必要であると推測しており、アイルランドの代表団は1万5千で十分であると主張した。 8月までの時点でこの計画はすでに遅れが出ていた。物資が非常に不足しており、ブレストの造船所の労働者への賃金も滞っていて、その一方で、部隊の準備はなされたものの、コーンウォールへの侵攻が実現するかは定かでないことが明らかになり、大勢が脱走した。コーンウォール侵攻に向けての、艦隊の試験航海も完全な失敗に終わった、この計画のための小型艦が、海ではまるで役に立たないことが明らかになったのである。このコーンウォール侵攻計画は取り止めとなり、当てにできる兵たちはアイルランドへの遠征部隊に組み込まれ、残りは刑務所へ戻った 。地中海艦隊からの増員も遅れていた。少将ジョゼフ・ド・リシュリ(英語版)指揮下の7隻の艦が、ロシュフォールのイギリス軍封鎖から隠れて航行せざるを得なかったためで、この7隻だけが12月8日にブレストに到着した。しかしピエール・シャルル・ヴィルヌーヴ少将の第二艦隊が到着したのは、遠征軍が出発した後だった 。 1796年末を通して、遠征計画は不安定だった。オシュは海軍の指揮官、具体的にはルイ・トマ・ヴィヤレ・ド・ジョワイユーズ(英語版)を準備の遅れで公然と非難した。ヴィヤレは指揮官を中将のジュスタン・ボナヴァンテュール・モラール・ド・ガレ(英語版)に代えられ、ヴィヤレのインドでの軍事活動も中止になった。一方でオッシュは、自ら艦隊内の軍事訓練の指揮を執っていた。12月の第2週までに艦隊の準備は整った。艦隊は17隻の戦列艦、13隻のフリゲート艦、そしてそれ以外に、船倉を広くするために砲台を取り去った古いフリゲート艦である輸送艦数隻を含む、14隻の艦から構成されていた。それぞれの戦列艦には600人の兵士が乗艦でき、フリゲート艦には250人、輸送艦にはおよそ400人を収容できた。侵攻を心待ちにしている、アイルランドの何千もの義勇兵のために、騎兵隊や野砲や、沢山の軍需物資も積み込まれた。オッシュはそれでも満足できず、12月8日、総裁政府に、アイルランドへの計画的な攻撃などより、何か他の任務で兵を率いて活動することを望む旨を告げた。そんなオッシュを支援したのはモラール・ド・ガレだった。ド・ガレは、オシュの指揮下の陸軍兵が海に不慣れであるため、海上で敵に遭遇するのを可能な限り避けることを承諾した。
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