紀元前204年にいたるまでのローマのアフリカ侵攻準備
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「ウティカの戦い (紀元前203年)」の記事における「紀元前204年にいたるまでのローマのアフリカ侵攻準備」の解説
古代リビュア(現在のチュニジア)へのローマの最初の侵攻は第一次ポエニ戦争のときであった。このときはローマの敗北に終わった(チュニスの戦い)。それから50年後に、ローマは再びアフリカへ侵攻することになる。 アフリカへの侵攻は、第二次ポエニ戦争において当初よりの計画であった。カルタゴ軍の指導者であるハンニバルはイベリア半島を基地として、ガリア南部を経由し、アルプスを越えて紀元前218年にイタリア半島に侵入した。これを迎え撃った執政官(コンスル)プブリウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アフリカヌスの父)はティキヌスの戦いで敗北した。もう一人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスはカルタゴ遠征を予定していたが、急遽シチリアからガリア・キサルピナへ派遣された。しかしトレビアの戦いで敗北、その後もローマ軍の敗北は続き、カルタゴ本国への侵攻作戦は放棄せざるを得なくなった。その後の戦闘も主としてイタリア半島、イベリア半島およびシチリアで行われ、北アフリカに戦禍は及ばなかった。転機となったのは紀元前205年ころであり、ローマ軍はカルタゴ軍の侵攻を防ぎきり、ハンニバルは徐々にその同盟国を失っていった。またハンニバルの弟のハスドルバル・バルカはハンニバルとの合流を目指してイベリアからイタリアに侵攻したが、メタウルスの戦いで戦死した。カルタゴ軍はシチリアからもイベリアからも駆逐されるか、アペニン山脈の北西に追い詰められた。カンナエの戦いの後、シチリアの最大の都市国家であるシュラクサイはカルタゴの同盟国となっていたが紀元前212年に陥落し(シュラクサイ包囲戦 (紀元前214年-紀元前212年))、ローマはカルタゴに対する海上からの攻撃基地を得た。紀元前208年、紀元前207年および紀元前205年には、海上からアフリカを襲撃している。 紀元前206年に、スキピオ・アフリカヌスはイリッパの戦いに勝利して、カルタゴ軍をイベリア半島から駆逐し、正式な承認が得られる前から、アフリカ侵攻を次の目標とした。そのためには、スキピオはハンニバルの同盟者であるヌミディアのシュファクスをローマ側に誘うことが必要と結論した。スキピオは紀元前205年に執政官に選出されてはいたが、ローマ元老院からアフリカ侵攻作戦の承認を得るための政治的努力を行なっていた。最大の反対者はクィントゥス・ファビウス・マクシムスであり、アフリカ侵攻はリスクが高すぎるとし、ブルティウム(現在のカラブリア州)に滞陣しているハンニバルとの戦いを第一目標と考えていた。スキピオは元老院に対して、アフリカ侵攻こそがハンニバルをイタリアから追い出すための最善策であると説得した。にも関わらず、スキピオには十分な兵力は与えられず、シチリアで新たな軍を編成したが、その準備に1年間を要した。 カルタゴは、スキピオが副将のガイウス・ラエリウスを艦隊とともにカルタゴの西にあるヒッポ・レギウス(Hippo Regius)に送ったことに警戒していた。ローマの大軍による侵攻を阻止するために、カルタゴは様々な手段を講じたが、マケドニア王ピリッポス5世にシチリア攻撃を促す計画は失敗に終わり、ブルティウムとリグリアに送った援軍も、イタリアでの戦況を逆転するには十分ではなかった(クロトナの戦い、ポー平原遠征)。ただし、シュファクスを寝返らせるというスキピオの謀略は、ハスドルバル・ギスコの政治的手腕と、その娘のソフォニスバ(Sophonisba)の魅力のために阻止された。
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