メタウルスの戦い
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メタウルス川の戦い | |
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![]() 第二次ポエニ戦争要図 | |
戦争:第二次ポエニ戦争 | |
年月日:紀元前207年 | |
場所:メタウルス川 | |
結果:ローマの勝利 | |
交戦勢力 | |
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カルタゴ |
指導者・指揮官 | |
![]() ![]() |
ハスドルバル・バルカ |
戦力 | |
37,000 | 50,000 |
損害 | |
不明 | 不明 |
メタウルス川の戦いは、紀元前207年にイタリアのメタウルス川畔で起きた、ローマ軍とカルタゴ軍との戦いである。
前段階
大スキピオによってカルタゴ・ノウァを失陥し、バエクラの戦いでも敗れたカルタゴ軍は、南イタリア(マグナ・グラエキア)にいるハンニバルと合流することで戦況を逆転しようとした。ハンニバルの弟ハスドルバルの指揮するカルタゴ軍は、アルプスを越えイタリア半島に侵入した。
一方のローマ軍は兄弟の合流を防ぐため、マルクス・リウィウス・サリナトル指揮の2個軍団を急派して追跡させた。また、ハスドルバルがハンニバルに送った密使が、ハンニバルと対峙していたガイウス・クラウディウス・ネロの軍勢に捕えられた。ネロは密かに南イタリアからハスドルバルの軍勢を追うために、7千の軍勢を指揮して北イタリアに急行した。
戦闘状況
ローマ軍に捕捉されたハスドルバルは、メタウルス川を戦場に選んだ。
ハスドルバルは象を投入したが暴れて役に立たなかったため、象を殺して戦闘に突入した。ハスドルバルは当初兵力がローマ軍より多く、優勢だったが、執政官ネロは自軍の右翼からメタウルス川の岸に移動し、カルタゴ軍の右翼を攻撃し、地形を利用してカルタゴ軍を包囲し、殲滅した。混乱の中でハスドルバルは戦死した。
戦後と影響
ハスドルバルの首は剥製にされ、ハンニバルの陣営に投げ込まれた。この時までハンニバルは、ハスドルバルのイタリア到着と死を知らなかったという。この戦いでの敗戦により、カルタゴ勝利の可能性は消え、ハンニバルはイタリア半島の先端に閉じ込められることになった。なお、執政官リウィウスの担当していた戦線で起こった戦いだったため、執政官ネロに凱旋式挙行は許されなかった。
メタウルスの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/01 10:20 UTC 版)
「マルクス・リウィウス・サリナトル」の記事における「メタウルスの戦い」の解説
ハスドルバルはアルプスを越えプラケンティアを包囲すると、ハンニバルに密使を送った。ウンブリア州で合流する計画だったが、この密使がネロの部隊に捕まった。ネロはそれぞれの執政官が個別に敵に対応する今の状況はまずいことを元老院に訴え、強行軍のサポートを各地方に準備させた。7000の精兵を引き抜き、残りの部隊でカルタゴの拠点に陽動をかけることを決めると、リウィウスの駐屯するセナへ向かって出発した。ネロは事前にリウィウスと連絡を取り合い、増援到着を敵に知られないため、夜合流することになった。合流した彼らは作戦会議を行い、敵を偵察しネロの部隊の休養を待ってから攻撃すべきとの意見が出たが、ネロは敵に時間を与え合流の機会を作るべきでないと即時攻撃を訴え、メタウルスの戦いが始まった。 この戦いではリウィウスは堂々と前進し勇敢に戦ったという。カルタゴ軍の損害1万に対し、ローマも2000の兵を失ったが勝利した。この勝利の報がローマに届いたとき、最初信じられなかったが、続報が届くと街は大きな喜びに包まれた。2人の執政官は一緒にローマ入りすることを決め、歓呼の声で迎えられた彼らは凱旋式挙行の栄誉をえた。勝利はリウィウスの担当地で、リウィウスの指揮権がある日に得られたため、彼が先頭のクアドリガに乗り、ネロは騎乗して凱旋したが、ネロの功績を讃える声が大きかったという。
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