ザマの戦い
ザマの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:48 UTC 版)
「スキピオ・アフリカヌス」の記事における「ザマの戦い」の解説
詳細は「ザマの戦い」を参照 カルタゴはスキピオの登場によって劣勢に陥り、かつてハンニバルがイタリアで粉砕してきたローマ軍も、ヒスパニアでの戦闘を通じて質の高い軍勢へと変貌を遂げていた。この状況に動揺したカルタゴは外交交渉を試みながら、ハンニバルにカルタゴへの帰還を要請した。ハンニバルは数十年ぶりに母国カルタゴへ戻ることになる。ハンニバルの帰還で強気になったカルタゴはスキピオの提案した和平条件を拒否。外交交渉は頓挫した。 両軍はカルタゴとウティカとの中間地点であるザマで対峙した。両軍の構成は以下の通り。 ハンニバルの兵力 - 歩兵:58,000人、騎兵:6,000騎 スキピオの兵力 - 歩兵:34,000人、騎兵:8,700騎 紀元前202年10月9日、互いの軍が対峙する中でスキピオとハンニバルは会見し、交渉による解決を試みている。スキピオはハンニバルの能力を高く評価していたし、ハンニバルもスキピオの才能に一目置いていた。ハンニバルはこれ以上の無益な戦いをやめて休戦交渉に入ることを提案したが、スキピオはハンニバルのサグントゥム包囲がもともとの発端であったと主張、自身の和平条件を後退させることはないとし、交渉は決裂した。結局、両者は自陣へ戻って戦闘に備える。 騎兵で劣るハンニバルは、伝統的な重装歩兵を主体に厚く3列に陣を布き、前面に戦象を押し出す陣形を築いた。これに対してスキピオはマニプルスを主体とする小集団をチェック模様(クインカントゥス隊列)のように布陣、右翼にマシニッサ率いるヌミディア騎兵を配置した。 戦闘が始まるとまずハンニバルの戦象隊が突撃した。これに対して小集団の機動力を活かしたローマ軍は柔軟な回避行動をとり、重装歩兵の前列に配置してあった軽装歩兵の撹乱攻撃や投げ槍の攻撃によって戦象は隊列を乱して暴走、混乱に陥った。マシニッサのヌミディア騎兵とラエリウス率いるローマ騎兵は、劣勢のため後退するカルタゴ騎兵を追って主戦場から離れ、残された歩兵の前列同士が激突した。歩兵同士の戦闘は熾烈を極めたが、歩兵を指揮していたスキピオは兵の疲弊を抑えるために一旦停止して戦線を横に広げ、まだ攻撃に参加していなかったハンニバルの主力を包囲する形で攻撃した。そこに敵騎兵を蹴散らして戻ってきたヌミディア騎兵とローマ騎兵が、カルタゴ歩兵の死角である後方から襲いかかり、ハンニバルがローマ軍を打ち破ったカンナエの戦いそのままの包囲殲滅が実現し、ハンニバル軍は大敗した。この勝利によってスキピオは事実上第二次ポエニ戦争を終結させたのである。 戦後、スキピオは宿敵カルタゴに寛容な方針で臨んだ。多くのローマ人はスキピオがそのままカルタゴの包囲攻撃に取り掛かると思っていたが、ハンニバルも裁かれることなく休戦が成立した。スキピオのこの戦後処理は、多くの若いローマ人たち(その中には後年スキピオを弾劾するマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスがいた)の反感を買うことになる。 ギリシア文化を好み開放的な思考の持ち主であったスキピオは、ハンニバルこそ戦後のカルタゴ復興を担う人材であり、彼を許すことはカルタゴの、そしてローマ自身の戦後処理に大いに役に立つと考えていた。しかし幼少時代に故国をハンニバルに蹂躙され、縁者が次々と殺されていく中で育ったカトたちにしてみれば、ハンニバルは同胞ローマ人に斬首、磔刑など残酷な仕打ちを行った人物であり、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}このような宿敵に対するスキピオの処置は生ぬるいとしか考えられなかった。[独自研究?]この溝はスキピオの晩年に政治的な対立として表面化してくる。
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