南イタリアにおけるハンニバル戦争の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 14:00 UTC 版)
「クロトナの戦い」の記事における「南イタリアにおけるハンニバル戦争の終焉」の解説
紀元前204年、ローマは明らかに戦争に勝利しつつあった。3年前にイベリアからアルプスを越えてイタリアに侵入し、兄であるハンニバルに合流しようとしたハスドルバルの軍を粉砕していた(メタウルスの戦い)。プブリウス・コルネリウス・スキピオ(後のスキピオ・アフリカヌス、大スキピオ)は、ハスドルバル不在のイベリアに留まり、イリッパの戦いでカルタゴ軍に勝利していた。ローマの最終的な勝利は時間の問題であった。 メタウルスの戦いの後、ハンニバルは残存カルタゴ軍およびその同盟軍をイタリア半島最南端のブルティウム(現在のカラブリア州)に集中させた。ルカニアとマグナ・グラエキアの占領地は、戦略的重要性が失われ、またローマ軍の攻撃から防衛出来ないと判断されたために放棄された。また、前年にローマに幾つもの都市がローマに占領されており、多くの兵を失っていた。ハンニバルは損害を最小に抑えたかった。周囲を海に囲まれ、また多くが山岳地帯であるブルティウムは、ローマ軍の侵攻に対応するには最適の土地であった。ハンニバルは父であるハミルカル・バルカが第一次ポエニ戦争のシチリア戦線で使った戦術と同じ戦術を採用した。軍事史家のハンス・デルブリュックによると、ハンニバルの戦略的目標は、イタリア半島のカルタゴ占領地と引き換えにローマと有利な条件での講和を行うことであった。 リウィウスは、その後の戦争を次のように述べている。「ブルティウムでの悪戦苦闘は、カルタゴ軍が通常の戦闘ではなく山賊行為的な戦闘方法を採用したために生じた。ヌミディア兵は、もともとこのような戦闘に慣れていたし、ブルティウム兵もそれに従った。将軍たちが許したため、最後にはローマ兵も熱心に略奪を行なうようになった」 この段階で、ローマは次をどうするかを決める必要があった。元老院での多大な議論の後、スキピオは紀元前205年の執政官(コンスル)に選出され、主張していたアフリカ遠征が認められた。スキピオの主張は、カルタゴ本国を攻撃することによってのみ、ハンニバルおよびリグリア(現在のリグーリア州)に上陸していたマゴをイタリアから撤退させることが出来るというものであった。しかし、スキピオには十分な兵力は与えられず、シチリアから遠征軍を送るために1年間を費やした。
※この「南イタリアにおけるハンニバル戦争の終焉」の解説は、「クロトナの戦い」の解説の一部です。
「南イタリアにおけるハンニバル戦争の終焉」を含む「クロトナの戦い」の記事については、「クロトナの戦い」の概要を参照ください。
- 南イタリアにおけるハンニバル戦争の終焉のページへのリンク