南イタリア遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:01 UTC 版)
「ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「南イタリア遠征」の解説
1135年、メルゼブルクで会議が開かれ、その場で東ローマ帝国皇帝ヨハネス2世コムネノスやヴェネツィア総督使節は、当時強勢を誇ったシチリア王国を警戒し、ロタールに対しイタリア遠征を要請した。翌1136年、ロタール3世はイタリア南部への軍事遠征を敢行した。しかし、シチリア王国の打倒にまでは至らず、ロタール3世も、遠征の帰路の1137年にチロル地方のブライテンヴァンクで死去した。 ロタール3世は、後継者に婿のハインリヒ10世を望んでいた。しかし、帝国諸侯はハインリヒ10世の選出を拒否、代わりに元対立王コンラートをローマ王コンラート3世に選出させた。ハインリヒ10世はコンラート3世と対立、ザクセン公位とバイエルン公位を取り上げられて1139年に死去、公位はそれぞれアルブレヒト熊公、オーストリア辺境伯レオポルト4世に与えられた。しかし、ヴェルフ家はこの措置を認めず抵抗し、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立は深まっていった。
※この「南イタリア遠征」の解説は、「ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)」の解説の一部です。
「南イタリア遠征」を含む「ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)」の記事については、「ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)」の概要を参照ください。
- 南イタリア遠征のページへのリンク