オーストリア君主一覧
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 04:57 UTC 版)
オーストリア君主一覧(オーストリアくんしゅいちらん)は、オーストリアの君主の一覧。
オストマルク東方辺境伯
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- ハインリヒ
- ヴィルヘルム1世(Wilhelm I) - ヴィルヘルム家
- ヴィルヘルム2世(Wilhelm II) - ヴィルヘルム1世の子
- エンゲルシャルク1世(Engelschalk I) - ヴィルヘルム2世の兄弟
- アリボ1世(Aribo I) - アリボ家
- エンゲルシャルク2世(Engelschalk II) - エンゲルシャルク1世の子
オーストリア辺境伯(バーベンベルク家)
- レオポルト1世 (976年 - 994年)
- ハインリヒ1世 (994年 - 1018年)
- アーダルベルト (1018年 - 1055年)
- エルンスト (1055年 - 1075年)
- レオポルト2世 (1075年 - 1095年)
- 聖レオポルト3世 (1095年 - 1136年)
- レオポルト4世 (1136年 - 1141年)
- ハインリヒ2世 (1141年 - 1156年) ⇒オーストリア公ハインリヒ2世
オーストリア公
バーベンベルク家
- ハインリヒ2世 (1156年 - 1177年)
- レオポルト5世 (1177年 - 1194年)
- フリードリヒ1世 (1194年 - 1198年)
- レオポルト6世(1198年 - 1230年)
- フリードリヒ2世(喧嘩公) (1230年 - 1246年)
ツェーリンゲン家(バーデン系)
プシェミスル家
ハプスブルク家
- ルドルフ1世(1278年 - 1282年) - ローマ王
- アルブレヒト1世(1282年 - 1308年) - ローマ王
- フリードリヒ1世(1308年 - 1330年) - ローマ王としてはフリードリヒ3世 「美王」
- アルブレヒト2世(1330年 - 1358年) - 「賢公」
- ルドルフ4世(1358年 - 1365年) - 大公(僭称)、「建設公」
- アルブレヒト系
- アルブレヒト3世(1365年 - 1395年)
- アルブレヒト4世(1395年 - 1404年)
- アルブレヒト5世(1404年 - 1439年) - ローマ王としてはアルブレヒト2世
- ラディスラウス(1440年 - 1457年)
- レオポルト系
- レオポルト3世(内オーストリア公 1365年 - 1386年)
- ヴィルヘルム(内オーストリア公 1386年 - 1406年)、レオポルト4世(前方オーストリア公 1386年 - 1411年)
- エルンスト(内オーストリア公 1406年 - 1424年) - 「鉄公」、フリードリヒ4世(前方オーストリア公 1411年 - 1439年)
オーストリア大公
ハプスブルク家
- フリードリヒ5世(1439年 - 1493年) - ローマ王としてはフリードリヒ4世、神聖ローマ皇帝としてはフリードリヒ3世
- マクシミリアン1世(1493年 - 1519年)
- カール1世(1519年 - 1521年) - 神聖ローマ皇帝としてはカール5世
- フェルディナント1世(1521年 - 1564年)
- マクシミリアン2世(1564年 - 1576年)
- カール2世(内オーストリア大公、1564年 - 1590年)
- フェルディナント2世(前方オーストリア大公、1564年 - 1595年)
- ルドルフ5世(1576年 - 1612年) - 神聖ローマ皇帝としてはルドルフ2世
- マティアス(1612年 - 1619年)
- マクシミリアン3世(前方オーストリア大公、1612年 - 1618年)
- レオポルト5世(前方オーストリア大公、1619年 - 1632年)
- フェルディナント・カール(前方オーストリア大公、1628年 - 1662年)
- ジギスムント・フランツ(前方オーストリア大公、1662年 - 1665年)
- フェルディナント3世(1619年 - 1637年) - 神聖ローマ皇帝としてはフェルディナント2世
- フェルディナント4世(1637年 - 1657年) - 神聖ローマ皇帝としてはフェルディナント3世
- レオポルト1世(1657年 - 1705年)
- ヨーゼフ1世(1705年 - 1711年)
- カール3世(1711年 - 1740年) - 神聖ローマ皇帝としてはカール6世
- マリア・テレジア(1740年 - 1780年) - 女大公、「女帝」[1]
ハプスブルク=ロートリンゲン家
- ヨーゼフ2世(1780年 - 1790年)
- レオポルト7世(1790年 - 1792年) - 神聖ローマ皇帝としてはレオポルト2世
- フランツ2世(1792年 - 1835年)⇒オーストリア皇帝フランツ1世
以後はオーストリア皇帝と兼ねられた。
オーストリア皇帝
脚注
関連項目
オーストリア辺境伯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:50 UTC 版)
「バーベンベルク家」の記事における「オーストリア辺境伯」の解説
976年、バーベンベルク家のドナウガウ伯レオポルト1世(ルイトポルト)は、後のオーストリア大公領へと成長するバイエルンの東側国境付近を獲得し、東方辺境伯(オストマルク辺境伯)と記されている。レオポルト1世の子孫にあたるフライジング司教オットーは、レオポルト(ルイトポルト)の先祖を前述の東フランケン公ハインリヒの子アーダルベルトとしている。しかし一方でルイトポルト家との関係も指摘されており、レオポルト1世をバイエルン公アルヌルフ悪公の孫とする説も見られる。また、ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルトの父ノルトガウ伯ベルトルト(980年没)はレオポルトの兄弟とも叔父ともいわれている。 オーストリアのバーベンベルク家は270年間にわたりオーストリアを支配したが、13世紀半ばにフリードリヒ2世の死により男系が絶えて、女系が特例としてオーストリア辺境伯となった。だが、ボヘミア貴族のオタカル2世(プシェミスル朝)が、オーストリア辺境伯マルガレーテ(フリードリヒ2世の姉)と結婚したため、オーストリア辺境伯はプシェミスル朝のものとなり、ついに断絶した(後にオタカル2世はマルガレーテがかつてトリーアの修道女であったことを理由に離別した)。
※この「オーストリア辺境伯」の解説は、「バーベンベルク家」の解説の一部です。
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