アルブレヒト6世_(オーストリア大公)とは? わかりやすく解説

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アルブレヒト6世 (オーストリア大公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/20 09:38 UTC 版)

アルブレヒト6世
Albrecht VI.
オーストリア大公
Antoni Boys 画
在位 1457年 - 1463年

出生 (1418-12-12) 1418年12月12日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーン
死去 (1463-12-02) 1463年12月2日(44歳没)
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国、ウィーン
埋葬 神聖ローマ帝国
オーストリア大公国シュテファン大聖堂
配偶者 メヒティルト・フォン・デア・プファルツ
家名 ハプスブルク家
父親 オーストリア公エルンスト
母親 ツィンバルカ・マゾヴィエツカ
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アルブレヒト6世(Albrecht VI., 1418年12月12日 - 1463年12月2日)は、ハプスブルク家オーストリア公、後に大公。オーストリア公エルンスト(鉄公)とその2番目の妻ツィンバルカ・マゾヴィエツカの息子で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の弟。

生涯

1424年に父エルンストが死去すると、叔父フリードリヒ4世が後見人となり[1]、兄フリードリヒとともに所領を相続した。1439年、叔父フリードリヒ4世、および又従兄弟の皇帝アルブレヒト2世が死去。翌1440年、兄フリードリヒがアルブレヒト2世のあとを承けてローマ王となり、アルブレヒト2世の遺児ラディスラウスの後見人となった。1452年に皇帝位についた兄フリードリヒは1457年にラディスラウスが死去すると、ラディスラウスの遺領であるニーダーエスターライヒの領有権を主張し、アルブレヒトはこれに反対した[2]。最終的に翌1458年に兄フリードリヒとの間に取り決めを行い、エンス川以東のニーダーエスターライヒを兄フリードリヒが、エンス川以西のオーバーエスターライヒをアルブレヒトが支配することとなった[2]

野心家であったアルブレヒトは、1461年6月にニーダーエスターライヒに進軍し[3]、さらに1463年には兄フリードリヒ3世が不在の間にウィーンで暴動を起こさせ、兄の妃エレオノーレと甥マクシミリアンを幽閉した[4]。そして急遽帰還したフリードリヒ3世を城内に入れずに追い払った。しかしほどなく、アルブレヒト6世は死去し(急進な苛政を敷いたため暗殺されたとされる)、フリードリヒ3世はウィーンへ戻ることができた。1452年に結婚したプファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世の娘メヒティルトとの間には子供がなかったため、所領はフリードリヒ3世が相続した。

脚注

  1. ^ ツェルナー、p. 186
  2. ^ a b ツェルナー、p. 192
  3. ^ ツェルナー、p. 193
  4. ^ 瀬原、p. 319

参考文献

  • エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 彩流社、2000年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世後期の歴史像』 文理閣、2011年

関連項目

先代
ラディスラウス
オーストリア公/大公
1439年(1457年) - 1463年
フリードリヒ5世と共同統治
次代
フリードリヒ5世
(単独統治)
先代
エルンスト
シュタイアーマルク公
1424年 - 1463年
フリードリヒ5世と共同統治
次代
フリードリヒ5世
(単独統治)



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