ウィーン追放と帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:15 UTC 版)
「フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ウィーン追放と帰還」の解説
1453年5月29日、メフメト2世率いるオスマン帝国軍によってコンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅んだ。このニュースはヨーロッパを駆け巡り、人々を震撼させたが、フリードリヒ3世は関心を示さなかった。 弟アルブレヒト6世大公は、凡庸な兄を前にして野心を燃やし、1463年にウィーンの不穏分子を煽り暴動を起こさせ、エレノオーレとマクシミリアンを幽閉した。皇帝は10日後にウィーンに駆けつけたが、城内に入れないまま追い払われた。屈辱的な内容の講和をアルプレヒトと取り交わした後、フリードリヒはようやくウィーンへの入城を果たしたが、苛政を敷くアルプレヒトが暗殺されたことにより、ウィーン市民と和解した。 存亡の機にあるハンガリー貴族はフリードリヒ3世を見限り、オスマン帝国から恐れられていたフニャディ・ヤーノシュを実質的な王に選出していたが、ヤーノシュの子マーチャーシュは1458年、正式にハンガリー王に選出されると、ワラキア、セルビアなど次々に領土を拡張し、1479年にはオロモウツの和約によってオーストリア大公の地位さえ奪った。1483年にはオーストリアの半分を支配し、1485年以降ウィーンも占領され、フリードリヒ3世はリンツへ宮廷を移した。フリードリヒ3世は娘クニグンデをオスマン帝国のスルタンに差し出してこの危機を切り抜けよう、などと考えていたという。しかしマーチャーシュは1490年に子を残さぬまま死亡し、フリードリヒ3世は三たびウィーンに戻ってオーストリアの支配権を奪還することができた。同じ1490年には従弟のジークムント大公が領主権をマクシミリアンに譲渡し、ハプスブルク家の領地はフリードリヒ・マクシミリアン親子の下に統合された。
※この「ウィーン追放と帰還」の解説は、「フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)」の解説の一部です。
「ウィーン追放と帰還」を含む「フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)」の記事については、「フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)」の概要を参照ください。
- ウィーン追放と帰還のページへのリンク