母后の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:48 UTC 版)
「マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「母后の影響」の解説
マクシミリアンが3歳の1462年8月、父帝フリードリヒ3世に対し、野心家の叔父アルブレヒト6世(オーストリア大公)が叛乱をしかけ、混乱に対処しない皇帝に対しアルブレヒトに煽動され、ウォルフガング・ホルツァーを筆頭に市民が議会に殺到し、マクシミリアンと母后エレオノーレはウィーンの王宮に幽閉される。アルブレヒトがウィーンを支配するが、ほどなく死去し、ホルツァーも処刑され、再びフリードリヒ3世がウィーンを治めた。 マクシミリアンは言語面での発達が遅く、5歳まで言葉を喋れなかった。母后の期待を一身に背負い成長するが、彼女はマクシミリアンが8歳のときに逝去した。マクシミリアンの社交的で明るい性格や芸術・学問への関心は、母エレオノーレの影響が大きいとされる。一方、母の早世により信仰心は深まり、父帝同様に錬金術や迷信にも関心を持った。
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