母国と呼称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 03:07 UTC 版)
考古学的には、鉄器時代前期にユトランド半島から民族が移動した明確な証拠は見つかっていない。ユトランド半島北部で見つかった紀元前2世紀から紀元前1世紀に捨てられた(または隠された)グンデストルップの大釜は、南ヨーロッパとの何らかの接触があったことを物語っているが、それがキンブリ族の遠征だったのかどうかは定かではない。 キンブリ族とユトランド半島を結びつける根拠は、古代のギリシアやローマの文献である。アウグストゥスの『業績録』(ch. 26) によれば、紀元1世紀になってもキンブリ族はその地域で見られたという。 わが軍はライン川河口から出航し東方のキンブリ族の土地まで行った。当時ローマ人が陸路でも海路でも踏み込んだことのなかった土地である。キンブリ族やチャリデス族やセムノネス族などその地に住むゲルマンの人々が特使を立て、私とローマ市民との親交を得ようとした。 同時代のギリシア人地理学者ストラボンは、キンブリ族がゲルマンの部族として依然として存在しており、(北海沿岸に住み、アウグストゥスに敬意を表したといわれていることから)おそらく「キンブリ族の半島」に住んでいると記している。 キンブリ族についての文献の一部は不正確で、その他はほとんどあり得ない話である。例えば、彼らが定住せずに海賊のようになった理由として、半島に住んでいたとき大きな上げ潮で住まいが使えなくなったためだというが、ありそうもない話である。実際、彼らはかつて住んでいた土地に今も住んでいる。彼らはかつて行った攻撃を許してもらいローマと親交を結ぶために、アウグストゥスに貴重だという聖なるやかんを贈り、請願が認められると母国に帰っていった。したがって、彼らが毎日2回常に起きる自然現象のせいで故郷の土地を捨てたと考えるのは滑稽である。かつて一度だけ過度な上げ潮が起きたという主張は捏造と思われる。海洋は常に満潮と干潮を繰り返すもので、それは定期的で周期的である。 プトレマイオスの地図では、ユトランド半島の北端部に "Kimbroi" の文字がある。当時、リムフィヨルドの北は小さな島々で、現在のヴェンシュセルチュー島が形成されるのは後のことである。したがって、ここで示されているのはユトランド半島北部の現在 Himmerland と呼ばれる地域である。古デンマーク語では Himbersysel であり、これがキンブリ族という名称に由来する地名とされている。グリムの法則により、インド・ヨーロッパ祖語における先頭の k が h に変化したとされる。一方、ラテン語で先頭を "C-" としたのは、ケルト人通訳がゲルマン祖語の h = [χ] をそのような発音のないラテン語に翻訳しようとしたためとされる(ケルト人が通訳したとすると、ゲルマン語の *Þeuðanōz がラテン語で Teutones すなわち「テウトネス」となったことも説明できる)。 Cimbri という名称の語源は不明である。一説によると、インド・ヨーロッパ祖語の *tḱim-ro-(住民)が語源だとする。これは tḱoi-m-(家、故郷)から派生したもので、さらに遡ると tḱei-(生活する)が語源とされる(ギリシア語では κτίζω、ラテン語では sinō)。すると、ゲルマン語の *χimbra- とスラブ語の sębrъ(農夫)は同系ということになる(クロアチアやセルビアの sebar、ロシアの sjabër)。 名前が似ているため、キンブリ族と "Cymry" と自称するウェールズ人を結びつけることがあった。しかし、"Cymry" という語はケルト語の *Kombroges から派生したもので「同胞」を意味し、ローマ人がそれを "Cimbri" と記録したと考えるのは無理がある。この名称は kimme(外縁)という単語とも関連付けられ、「海岸の人々」を表した。最終的に古代以来、この名前はキンメリア人の名前とも結びつけて考えられていた。
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