フリードリヒ3世の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:14 UTC 版)
「シュヴァーベン戦争」の記事における「フリードリヒ3世の統治」の解説
1452年、ハプスブルク家のフリードリヒ3世が帝位に就くと、スイスはもはや帝国からの支援には頼れなくなった。ハプスブルク家の公爵たちとの対立は、神聖ローマ帝国全体との対立となる可能性があった。フリードリヒ3世の治世下ではこの不安は杞憂に終わった。フリードリヒ3世は1442年の古チューリッヒ戦争でスイス同盟に反発してチューリッヒ市を支援したり、またスイス同盟員の帝国直属身分を再確認を拒否したものの、彼の統治には問題が多くスイスに対して軍事行動を行う余裕はなかった。オーストリアではまず弟のアルブレヒト6世と対立し、その後マーチャーシュ1世の圧迫を受けた。フリードリヒ3世はウィーンから追い出され、彼の宮廷は国中を放浪しなければならなくなった。 フリードリヒ3世はバイエルンのヴィッテルスバッハ家と、チロル伯、フォアアールベルク公並びに前方オーストリア大公を務めていた従兄弟のジークムントの反発に直面した。スイス同盟はジークムントとも対立していた。チロル司教の指名をめぐる紛争で教皇ピウス2世にジークムントが破門されると、スイスは以前のハプスブルク家の領土トゥールガウを併合した。1468年にジークムントはヴァルツフートの戦いでスイスと衝突した。ジークムントは莫大な身代金を支払って戦いを終わらせた。重要な領地を失わずに済んだが、身代金は、1469年にブルゴーニュ公シャルルにスンドゴーとアルザス地方を担保とし借り入れたものだった。 シャルルはスイスと対立するジークムントを助けず、結局1474年にジークムントは領土を買い戻し、永久協定(英語版)と呼ばれるスイス連合との平和条約を締結した。だが、皇帝フリードリヒ3世は条約を認めなかった。 続くブルゴーニュ戦争ではスイスとジギスムントはともにブルゴーニュ公シャルルと戦った。 1487年、ジークムントはフリードリヒ3世の娘クニグンデ・フォン・エスターライヒを、父王の意志に反してバイエルン公アルブレヒト4世と結婚させ、義理の甥となった彼にチロルと前方オーストリアの領土の一部を譲渡した。1488年、これに対しフリードリヒ3世はシュヴァーベン同盟を設立し、軍事介入を行った。同盟はシュヴァーベンの諸都市、聖ゲオルギウスの盾連盟に所属するシュヴァーベンの騎士たち、ヴュルテンベルクとチロル、フォアアールベルクの伯爵たちから成っていた。彼らの助けを借りて、フリードリヒ3世は、ヴィッテルスバッハ家に、ジークムントが割譲した領土を返還するように迫った。
※この「フリードリヒ3世の統治」の解説は、「シュヴァーベン戦争」の解説の一部です。
「フリードリヒ3世の統治」を含む「シュヴァーベン戦争」の記事については、「シュヴァーベン戦争」の概要を参照ください。
- フリードリヒ3世の統治のページへのリンク