クニグンデ・フォン・エスターライヒ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/25 07:12 UTC 版)
| クニグンデ・フォン・エスターライヒ Kunigunde von Österreich |
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| 出生 | 1465年3月16日 |
| 死去 | 1520年8月6日(55歳没) |
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| 配偶者 | バイエルン公アルブレヒト4世 |
| 子女 | 一覧参照 |
| 父親 | 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世 |
| 母親 | エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル |
クニグンデ・フォン・エスターライヒ(Kunigunde von Österreich, 1465年3月16日 - 1520年8月6日)は、バイエルン公アルブレヒト4世の妃。
生涯
神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世と皇后エレオノーレの娘として、ウィーナー・ノイシュタットで生まれた[1]。夫婦の間の5人の子供のうち成人したのは、兄マクシミリアン1世とクニグンデだけであった。
1470年、30歳年上のハンガリー王マーチャーシュに求婚されたが、フリードリヒ3世はこれを拒絶した[2]。1487年1月2日、クニグンデは父の意に反して結婚許可書を偽造したバイエルン公アルブレヒト4世と結婚した[3]。結婚式の後偽造が明らかになったが彼女は神への誓いを重んじ結婚生活を続けた。夫の死後、修道女となったが、長男ヴィルヘルム4世の摂政となった。宮廷から辞した後も、息子達のために執政した。また、兄マクシミリアン1世や、他国にいる縁者と密接に連絡をとっていた[4]。
アルブレヒト4世が死んだ1508年、クニグンデはピュートリヒ修道院に入り、修道女となった[5]。
子女
- ジドーニエ(1488年 - 1505年)
- ジビュレ(1489年 - 1519年) - プファルツ選帝侯ルートヴィヒ5世妃
- ザビーナ(1492年 - 1564年) - ヴュルテンベルク公ウルリヒ妃
- ヴィルヘルム4世(1493年 - 1550年) - バイエルン公
- ルートヴィヒ(1495年 - 1545年) - バイエルン公
- ズザンナ(1499年 - 1500年)
- エルンスト(1500年 - 1560年) - ザルツブルク大司教
- ズザンナ(1502年 - 1543年) - ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミールの妃。後にプファルツ選帝侯オットー・ハインリヒと再婚。
脚注
参考文献
- テア・ライトナー 『ハプスブルクの女たち』 新書館、1996年
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