エリーザベト・フォン・ハプスブルクとは? わかりやすく解説

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エリーザベト・フォン・ハプスブルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 13:21 UTC 版)

エルジュビェタ・ラクシャンカ
Elżbieta Rakuszanka
ポーランド王妃
在位 1454年2月10日 - 1492年6月7日
戴冠式 1454年2月10日 ヴァヴェル大聖堂
別称号 リトアニア大公妃

出生 1437年
神聖ローマ帝国
オーストリア公国ウィーン
死去 1505年8月30日
ポーランド王国クラクフ
埋葬 ポーランド王国クラクフヴァヴェル大聖堂
結婚 1454年2月10日 ヴァヴェル大聖堂
配偶者 カジミェシュ4世
子女 一覧参照
家名 ハプスブルク家
父親 ローマ王アルブレヒト2世
母親 エリーザベト・フォン・ルクセンブルク
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エリーザベト・フォン・ハプスブルク: Elisabeth von Habsburg)またはエリーザベト・フォン・エスターライヒ(Elisabeth von Österreich, 1437年頃 - 1505年8月30日)は、ポーランド王およびリトアニア大公であるカジミェシュ4世の妃。ポーランド語名はエルジュビェタ・ラクシャンカ(Elżbieta Rakuszanka)。ローマ王アルブレヒト2世ボヘミア王ハンガリー王オーストリア公を兼ねた)と妃エリーザベト・フォン・ルクセンブルク(同じく皇帝と2つの王位を兼ねたジギスムントの娘)の次女。姉にテューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世夫人アンナ、弟にオーストリア公を継承し、2つの王位にもついたラディスラウスがいる。

生涯

1439年に父を、1442年に母を幼くして亡くし、一族のフリードリヒ3世(皇帝、当時は戴冠前でローマ王)の後見を受ける。1454年にカジミェシュ4世と結婚し、2人の間には、曾祖父・祖父・叔父と同様にボヘミアとハンガリーの王を兼ねたウラースロー2世、相次いでポーランド王位を継承したヤン1世アレクサンデルジグムント1世ら13人の子が生まれた。

子女

エリーザベト・フォン・ハプスブルク(16世紀)




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