クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェンとは? わかりやすく解説

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クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 16:01 UTC 版)

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クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェン
Kunigunde von Hohenstaufen
ボヘミア王妃
在位 1230年 - 1248年

出生 1202年2月/3月
神聖ローマ帝国
シュヴァーベン公領
死去 1248年9月13日(46歳没)
ボヘミア王国プラハ
埋葬 ボヘミア王国プラハ、聖アネシュカ修道院
結婚 1224年
配偶者 ヴァーツラフ1世
家名 ホーエンシュタウフェン家
父親 ローマ王フィリップ
母親 イレーネー・アンゲリナ
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クニグンデの墓(プラハ、聖アネシュカ修道院)

クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェン(ドイツ語:Kunigunde von Hohenstaufen, 1202年2月/3月 - 1248年9月13日)またはクニグンデ・フォン・シュヴァーベン(Kunigunde von Schwaben)は、ローマ王フィリップイレーネー・アンゲリナの三女[1]。チェコ語ではクンフタ・シュタウスカ(Kunhuta Štaufská)。

生涯

1208年、クニグンデの父フィリップが暗殺され、その数ヶ月後に母イレーネーも五女の出産の際に生まれた娘とともに死去した。

クニグンデはその後まもなく婚約者であったヴァーツラフ1世の住むプラハに移った[1]。ヴァーツラフはボヘミア王オタカル1世と2番目の妃コンスタンツィエの間の生存する最年長の息子であった[2]1224年、クニグンデはヴァーツラフと結婚した[1]1228年にクニグンデとヴァーツラフは戴冠を受けた[3]

1230年、ヴァーツラフ1世がボヘミア王位を継承し、クニグンデは王妃となった。クニグンデは多くの修道院を創建したが、政治面で重要な役割を果たした形跡は見られない。

1239年にヴァールラフ1世の弟モラヴィア辺境伯プシェミスルが嗣子なく死去し、プシェミスル家の後継者はヴェンツェルとクニグンデの間の息子たちのみとなった。長男のヴラディスラフは1247年に死去した。

1248年、次男オタカル2世が不満を持つ貴族にそそのかされて父王ヴァーツラフ1世に反乱を起こした。クニグンデはプラハにとどまっていたが、反乱の最中の1248年9月13日に死去した。夫ヴァーツラフ1世も息子オタカル2世も葬儀に参列しなかった。クニグンデは聖アネシュカ修道院に埋葬された。

反乱は鎮圧され、オタカル2世は牢に入れられたが、まもなく釈放された。

子女

脚注

  1. ^ a b c d Sturner 1992, p. 295.
  2. ^ Wohida 2015, p. 299.
  3. ^ Druhé pokračování Kosmovy kroniky, Praha: Svoboda, (1974), OCLC 3097148 

参考文献




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