バーベンベルク家
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バーベンベルク家(独: Haus Babenberg)は、フランケン地方のバンベルク、現在の北ボヘミアを出自とする一族。オーストリアの辺境伯そして部族大公として976年から1248年の間、断絶によってプシェミスル朝及びハプスブルク家に代わられるまでオーストリア辺境伯およびオーストリア公としてオーストリア(オーストリア公国)を支配した。
- ^ K.Lechner, Genealogie。ただし「オストマルク」の語は辺境領の名称としては中世では用いられていない(ツェルナー、p. 90)。
- ^ ツェルナー、p. 86
- ^ a b ツェルナー、p. 87
- ^ 服部、p. 9
- ^ a b レオポルト1世の父(ハインリヒ?)およびノルトガウ伯ベルトルトをバイエルン公アルヌルフ悪公の息子としている(K.Lechner, Genealogie)。
- ^ Karl Lechner, Handbuch der historischen Stätten Österreich. v. 1. Donauländer und Burgenland, A. Kröner, 1970.
- 1 バーベンベルク家とは
- 2 バーベンベルク家の概要
- 3 脚注
バーベンベルク家
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「フリッケンハウゼン・アム・マイン」の記事における「バーベンベルク家」の解説
9世紀まで、この地域はバーベンベルク家の支配地に属していた。ブドウ栽培と教会の設立はこの貴族家の時代に遡る。バーベンベルガー・フェーデによってバーベンベルク伯領が帝国領となり、その後の寄進によってヴュルツブルク司教領となった。寄進については、東フランク王ルートヴィヒ4世の903年の文書に記録されている。王はフリッケンハウゼンの教会と王領をヴュルツブルク司教区に寄贈したのである。この地域の荒廃については、アーダルベルト・フォン・バーベンベルクが賠償することとされた。
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