バーベンベルク家とプシェミスル家の統治
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「ウィーンの歴史」の記事における「バーベンベルク家とプシェミスル家の統治」の解説
976年、神聖ローマ皇帝オットー2世は、ウィーンを含む地域をオストマルク辺境伯領としてバイエルンから独立させ、バーベンベルク家が辺境伯の地位についた。ただし、彼らはもっぱらメルクに居城を構えており、当初よりウィーンが中心都市だったわけではなかった。中世の半ばになると、ドナウ川の水運を用いた遠隔地商業も盛んになり、ウィーンは交易の要所として重要な役割を担うようになった。11世紀末より開始された十字軍運動も人と物の交流を活性化させ、十字軍に参加した王や諸侯らがドナウ川ルートを頻繁に用いてウィーンに立ち寄ったため、一種の戦争特需が喚起されウィーンの繁栄を助けた。 こうした中、1155年頃にオーストリア辺境伯ハインリヒ2世(バイエルン公も兼任)はウィーンに居城を移すことになった。翌1156年にバイエルンはザクセン公ハインリヒ獅子公に移されたが、皇帝フリードリヒ1世はハインリヒ2世をオーストリア公に昇格させた。12世紀末の第3回十字軍において、レオポルト5世は帰国途中だったイングランド王リチャード1世を捕らえ、デュルンシュタインに幽閉して多額の身代金をせしめることに成功した。この身代金を財源として、造幣主任のシュロム(ユダヤ人。彼のもとで初めてのユダヤ人居住区が設けられたとされる)が新たに貨幣を鋳造したほか、ウィーンの市壁が拡張された。この時の市壁が、現在の旧市街地区の範囲を規定している。1221年には都市特権が認められた。 1246年にバーベンベルク家の男系が断絶すると、ボヘミア(ベーメン)王国などを勢力範囲とするプシェミスル朝のオタカル2世が、ウィーンをおさえて勢力を拡大させた。オタカル2世はウィーン市民に経済活動などにおける広範な自由を認め、ウィーン市民からも好感を得ていた。この時代に幾度か大火を経験したが、そのたびに街は再建された。当時、1256年より神聖ローマ帝国は皇帝不在の大空位時代となっており、オタカル2世は有力な皇帝候補であった。しかし、オタカル2世への警戒から、1273年に弱小諸侯であったハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝位につき、1278年のマルヒフェルトの戦いでオタカル2世を敗死させた。これ以降、ウィーンはハプスブルク家の統治下に置かれることになった。
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