バーベンベルク家とプシェミスル家の統治とは? わかりやすく解説

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バーベンベルク家とプシェミスル家の統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:39 UTC 版)

ウィーンの歴史」の記事における「バーベンベルク家とプシェミスル家の統治」の解説

976年神聖ローマ皇帝オットー2世は、ウィーンを含む地域オストマルク辺境伯領としてバイエルンから独立させ、バーベンベルク家辺境伯地位についた。ただし、彼らはもっぱらメルク居城構えており、当初よりウィーン中心都市だったわけではなかった。中世半ばになると、ドナウ川水運用いた遠隔地商業盛んになり、ウィーン交易要所として重要な役割を担うようになった11世紀末より開始され十字軍運動も人と物の交流活性化させ、十字軍参加した王や諸侯らがドナウ川ルート頻繁に用いてウィーン立ち寄ったため、一種戦争特需喚起されウィーン繁栄助けたこうした中、1155年頃にオーストリア辺境伯ハインリヒ2世バイエルン公兼任)はウィーン居城を移すことになった。翌1156年バイエルンザクセン公ハインリヒ獅子公移されたが、皇帝フリードリヒ1世ハインリヒ2世オーストリア公に昇格させた。12世紀末の第3回十字軍において、レオポルト5世帰国途中だったイングランド王リチャード1世捕らえデュルンシュタイン幽閉して多額身代金せしめることに成功した。この身代金財源として、造幣主任のシュロム(ユダヤ人彼のもとで初めてのユダヤ人居住区設けられとされる)が新たに貨幣鋳造したほか、ウィーン市壁拡張された。この時の市壁が、現在の旧市街地区の範囲規定している。1221年には都市特権認められた。 1246年バーベンベルク家男系断絶すると、ボヘミアベーメン王国などを勢力範囲とするプシェミスル朝オタカル2世が、ウィーンおさえて勢力拡大させた。オタカル2世ウィーン市民経済活動などにおける広範な自由を認めウィーン市民からも好感得ていた。この時代幾度か大火経験したが、そのたびに街は再建された。当時1256年より神聖ローマ帝国皇帝不在大空位時代となっており、オタカル2世有力な皇帝候補であった。しかし、オタカル2世への警戒から、1273年弱小諸侯であったハプスブルク家ルドルフ1世皇帝位につき、1278年マルヒフェルトの戦いオタカル2世敗死させた。これ以降ウィーンハプスブルク家の統治下に置かれることになった

※この「バーベンベルク家とプシェミスル家の統治」の解説は、「ウィーンの歴史」の解説の一部です。
「バーベンベルク家とプシェミスル家の統治」を含む「ウィーンの歴史」の記事については、「ウィーンの歴史」の概要を参照ください。

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