ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)
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ロタール3世(2世)(Lothar III/II., 1075年6月 - 1137年12月3日)はズップリンブルク家[1]唯一のローマ王(ドイツ王、在位:1125年 - 1137年)[注釈 1]、神聖ローマ皇帝(戴冠:1133年6月4日)[注釈 2][注釈 3]。もともとは先代皇帝ハインリヒ5世と対立していたザクセン公(在位:1106年 - 1137年)。概して教皇に従属的でゲルフ(教皇派)の祖ともいえる。
注釈
- ^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアとブルグントへの宗主権を備える。
- ^ 皇帝としてもドイツ王としても2人目のロタールだが「3世」を自称しており、ロタリンギア王ロタール2世、あるいはイタリア王ロターリオ2世を挟んだ数字と考えられる。
- ^ 当時はまだ神聖ローマ帝国という国号はなく、古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国及びその後継国家群の総称を漠然とローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に任命され戴冠していた。神聖ローマ皇帝は歴史学的用語で実際の称号ではない。
出典
- ^ 菊池、p. 85では「ズップリンゲンベルク家」と記されている。
- ^ 瀬原、p. 338
- ^ 瀬原、p. 343
- ^ 瀬原、p. 347
- ^ 成瀬 他、p. 212には、マインツ大司教アダルベルトがホーエンシュタウフェン家を王位から遠ざけるため画策した説が紹介されている。
- ^ 成瀬 他、p. 212
- ^ 成瀬 他、p. 211
- ^ a b 瀬原、p. 375
- ^ 成瀬 他、p. 213 - 214
- ^ 瀬原、p. 382
- ^ 瀬原、p. 383
- ^ 瀬原、p. 383。しかしロタールは、この時には教皇のルッジェーロ討伐の要求に従わず、すぐに帰国した。
- ^ 瀬原、p. 384
- ^ 瀬原、p. 385
- ^ 瀬原、p. 387
- ^ 成瀬 他、p. 216。後のギベリン党とゲルフ党の争いの起点となったといわれる。
- 1 ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)とは
- 2 ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)の概要
- 3 参考文献
- ロタール3世_(神聖ローマ皇帝)のページへのリンク