ルートヴィヒ1世 (フランク王)
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ルートヴィヒ1世(ドイツ語: Ludwig I) 778年 - 840年6月20日)は、フランク王国の国王。神聖ローマ皇帝(在位:813年 - 840年)[1]。カール大帝の三男で、大帝死後も唯一生存していた嫡出の男子である[2]。フランス国王ルイ1世(フランス語: Louis Ier)とも見なされる。
注釈
- ^ 806年2月6日の「帝国分割令(Divisio regnorum)」による。
- ^ 皇帝より修道士となることを望んでいたという[2]。
- ^ いずれも正式な結婚をせず[7]、不品行の噂があった[8]。
- ^ ヴァラは後にルートヴィヒの息子らの反乱の指導者となる[9]。
- ^ 817年4月9日(聖木曜日)の出来事であった[11]。
- ^ 帝国整序令[6]、帝国継承令[10]、帝国分割令[11]などとも訳される。
- ^ ロタールはイタリアのみ、帝国の主要部分はピピンとルートヴィヒの兄弟で分割し、シャルルにはアレマニアを中心とする領域を与えるというものであった[17]。
- ^ アクィタニア人はピピンの息子ピピン2世の継承を支持し、ピピン2世はアクィタニア王を名乗り続ける[19]。
出典
- ^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ルートウィヒ1世(敬虔王)
- ^ a b 成瀬、p. 83
- ^ 瀬原、p. 39[注釈 1]
- ^ ルートヴィヒがカール大帝の後継者になった経緯について、ある伝説は次のように語っている。大帝夫妻と息子たちカール、ピピン、ルートヴィヒが後継者について話し合った際に3人は我こそは、と言い争った。帝妃ヒルデガルトは、息子たちそれぞれが村に行き、農民から雄鶏を手に入れてきて雄鶏を戦わせなさい、勝った雄鶏の持ち主が後継者になるとした。ルートヴィヒの雄鶏が勝利し、彼が父帝の死後跡を継いだと。Brüder Grimm: Deutsche Sagen. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0), Nr. 443. ≫Der Hahnenkampf≪(S. 391-392).
- ^ a b 五十嵐、p. 218
- ^ a b c d e f 成瀬、p. 84
- ^ 五十嵐、p. 135
- ^ 柴田、p. 163
- ^ 成瀬、p. 42
- ^ a b c d 瀬原、p. 40
- ^ a b c d e f 柴田、p. 164
- ^ 五十嵐、p. 218-219
- ^ 五十嵐、p. 219
- ^ 成瀬、p. 88
- ^ a b 五十嵐、p. 220
- ^ a b c 成瀬、p. 86
- ^ a b c d 瀬原、p. 42
- ^ a b c 瀬原、p. 43
- ^ 柴田、p. 165
- 1 ルートヴィヒ1世 (フランク王)とは
- 2 ルートヴィヒ1世 (フランク王)の概要
- 3 脚注
- ルートヴィヒ1世_(フランク王)のページへのリンク