キルデベルト養子王とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > キルデベルト養子王の意味・解説 

キルデベルト養子王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 05:59 UTC 版)

キルデベルト養子王
Childebert III l'Adopté
アウストラシア王
キルデベルトのコイン
在位 656年 - 662年

死去 662年
家名 ピピン家
父親 宮宰グリモアルド
(養父)シギベルト3世
テンプレートを表示

キルデベルト養子王(フランス語:Childebert III l'Adopté, ? - 662年)は、メロヴィング朝フランク王国アウストラシア王(在位:656年 - 662年)。アウストラシアの宮宰であったピピン家の出身であるが、アウストラシア王シギベルト3世の養子とされ、王位についた。

生涯

アウストラシアの実権を握っていた宮宰グリモアルドの子として生まれた。最初の名は父と同名のグリモアルドであった[1]。国王シギベルト3世には当初世継ぎがおらず、宮宰の子グリモアルドをキルデベルトと改名させ、自らの養子とした[1]。しかし、その後、シギベルト3世には実子ダゴベルト2世が生まれた[1]

656年にシギベルト3世が死去すると、宮宰グリモアルドは王の実子ダゴベルトをアイルランドの修道院に追放し、キルデベルトを王位につけた[1][2]。しかし、661/2年にグリモアルドはパリで暗殺され[3]、662年にキルデベルトも死去した[4]。その後、シギベルト3世の娘ビリキルディスを妃としていたキルデリク2世がアウストラシア王位についた[4]。後に、ダゴベルト2世は675/6年にアイルランドから呼び寄せられ、アウストラシア王位につくことになる[1][4]

脚注

  1. ^ a b c d e 柴田 他、p. 150
  2. ^ シギベルト3世の死後、数年の間はグリモアルドは幼王ダゴベルト2世のために政務をとり続け、ダゴベルトの追放とキルデベルトの即位が行われたのは660/1年であったとされる(瀬原、p. 10)。
  3. ^ 瀬原、p. 10
  4. ^ a b c ル・ジャン、p. 32

参考文献

  • 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「キルデベルト養子王」の関連用語

キルデベルト養子王のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



キルデベルト養子王のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのキルデベルト養子王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS