政治への参与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/04 19:01 UTC 版)
「レオデガル (オータン司教)」の記事における「政治への参与」の解説
656年ごろ、レオデガルはクロヴィス2世の寡婦バルティルドによりネウストリアに呼ばれ、彼女の子供たちを教育する傍らフランク王国の政治に関与するようになった。この頃のメロヴィング朝の統一フランク王は主にネウストリアを統治していたが、アウストラシアではピピン家の宮宰グリモアルド1世がメロヴィング家の王太子(後のダゴベルト2世)をアイルランドに追放し、自らの息子のキルデベルトをアウストラシア王としていた。659年、レオデガルはブルグンディアのオータン司教に任じられた。ここでも彼は改革の指揮を執り、661年に評議会を催した。この評議会ではマニ教が批判され、三位一体を旨とするアタナシオス信条が承認された。彼は世俗化していた聖職者や教会を正し、町に三つの洗礼堂を建設した。 またサン=ナゼールの教会を拡張し、貧者のための収容所をつくった。さらに公共施設の建物やローマ時代以来のオータンの城壁を修復した。 こうした諸政策の成功によってレオデガルの権威は高まり、ブルグンディアのフランク人貴族の指導者とみなされるようになった。 一方アウストラシアでは、662年にキルデベルト養子王が死去し、ネウストリア宮宰エブロインの影響下にあるキルデリク2世がアウストラシア王に即位した。その母でネウストリア摂政だったバルティルドは、エブロインにより彼女自身が建てたパリの修道院に入れられた。673年にネウストリア・ブルグンディア王クロタール3世が死去すると、エブロインはテウデリク(後のテウデリク3世)を担いだが、レオデガルら聖職者たちはテウデリクの兄であるキルデリク2世を推して成功し、キルデリク2世は全フランクの王となった。エブロインはリュクスイユ=レ=バンに左遷され、テウデリクはサン=ドニに送られた。
※この「政治への参与」の解説は、「レオデガル (オータン司教)」の解説の一部です。
「政治への参与」を含む「レオデガル (オータン司教)」の記事については、「レオデガル (オータン司教)」の概要を参照ください。
- 政治への参与のページへのリンク