政治への働きかけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:50 UTC 版)
「日本経済団体連合会」の記事における「政治への働きかけ」の解説
1954年に造船疑獄事件が政財界を揺るがす大事件を中心になったこと、東西冷戦構造の中、経営者は資本主義体制を支える政党をする必要があったことから、経団連が献金を取りまとめる「経団連方式」の政治献金が開始された。「経団連方式」とは、経団連が総額を決めた上で企業に負担能力に応じた献金額を割り振る方法であり、ほぼ100%の会員企業が斡旋の呼びかけに応じていた。毎年、自民党本部に100億円以上、民社党に10億円程度寄付していた。経団連は自民党への献金を「自由主義維持の為のコスト」と称し[要出典]、また経団連は「自民党の金庫」と呼ばれた。 1955年に造船疑獄事件の反省から経済人が経済再建懇談会を結成し、事務を経団連総務部長の花村仁八郎、同次長の久保田富雄が担当した。1959年に安保闘争に対抗して政財界や中小企業、文化人、婦人・青年団体等の代表者が自由国民連合を結成したが、両者は1961年に合併し、国民協会(後に国民政治協会に改称)が発足した。経団連は国民協会を支えてきたが、第10回参議院議員通常選挙の金権選挙批判やロッキード事件を受け、会長の土光敏夫は国民協会との関係を破棄した。国民政治協会への改称後、組織を建て直し1981年の協会創立20周年記念式典には会長の稲山嘉寛が招かれている。 献金斡旋を1993年に一旦中止した。理由は、1988年に発覚したリクルート事件、ゼネコン疑獄などの汚職が大問題となり、国民からの批判が高まったこと、バブル崩壊で各企業の売り上げにばらつきが出て業界ごとの献金調整が破たんしたことだと一般に言われているが、55年体制の終焉で保守が並び立つようになったという時代背景も影響している。中止以降は自民党の政治資金団体である、前述の国民政治協会が直接、業界や企業に献金を要請していたが、企業・団体の献金は2002年には26億円と、かつてより大幅に減少した。 2004年には企業への献金の斡旋を再開した。「経団連方式」とは違い、冷戦終結後の政治状況の中、「優先政策事項」に対して自民党と他の野党をそれぞれ評価し、各企業の「自発的な」献金を促進する方式にした(#経団連による「政策評価」と会員企業の政治献金も参照)。2004年度の会員企業の政治献金は自民党向けが22億2000万円、民主党向けが6000万円。両党以外の他党への献金は無かった。 以前は自民党だけでなく野党第一党の民主党と勉強会・懇談会を開催するなど、特定政党への偏りをなくすため「幅広い政党支持」を打ち出していたが、2005年の第44回衆議院議員総選挙では同年8月24日に自民党の単独支持を決めた。なお民主党との懇談会は支持母体の労働組合(連合)の影響もあり、2004年以来途絶えている。その後、民主党は経団連と距離を置く小沢一郎体制の下でさらに対決姿勢を強めており2007年の衆議院予算委員会の中で民主党の枝野幸男が、経団連会長・御手洗富士夫に偽装請負問題で参考人招致を要求した。また、2007年の勉強会・懇談会に小沢は欠席している。なお、2007年の秋の臨時国会において民主党を中心とした野党連合は偽装請負の実態解明のため経団連会長の御手洗に再度参考人招致を要求する事を決定した[要出典]。 2010年3月8日に、経団連としての会員企業へ政治献金の斡旋を取りやめ、献金は各企業ごとの自主的判断に任せる旨の声明を出した一方で、アメリカ合衆国などを参考に、個人献金の拡大策を検討し、政府に働きかける意向を示した。 しかし2014年9月8日、経団連は再び政策評価に基づく会員企業への政治献金の呼びかけを再開すると発表した。米倉弘昌会長による安倍晋三の金融緩和政策批判を機に政府自民党と経団連の関係が悪化しており、経団連会長の指定席だった経済財政諮問会議の議員ポストを剥奪されるなど冷遇を受けていたため、自民党への金銭支援をテコに関係回復と影響力強化を図るものと見られている。経団連側から献金呼びかけ再開について伝えられた政府は、榊原定征会長を経済財政諮問会議の議員として登用することを決定した。
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