政治への干渉、摂政王太后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 14:52 UTC 版)
「ブランシュ・ド・カスティーユ」の記事における「政治への干渉、摂政王太后」の解説
ブランシュはやがて祖母アリエノール、母レオノールと同じように政治に影響を及ぼすようになる。1216年、ルイ王太子はイングランド王ジョンが死亡すると、ブランシュの持つイングランド王位継承権を根拠にイングランドへ侵攻した(第一次バロン戦争)。ルイ王太子の父フィリップ2世はルイへの援助を拒否したため、ブランシュ1人だけが彼の味方だった。ブランシュは自らカレーで2つの艦隊を指揮したが、彼女の努力は全て水泡に帰した。あとわずかで即位できるところまで新王ヘンリー3世を追いつめながら、猛反撃を受けて撤退を余儀なくされたからであった。このことで明らかなように、強烈な意志を持ったブランシュが穏やかな性格のルイを支配していたのである。 1226年にルイ8世が早世すると、ブランシュは12人もしくは13人の子供たち(うち6人は夭折)の保護者となり、12歳で即位したルイ9世の摂政となった。当時カペー家の領土がフランス王国の広範囲を占めるプランタジネット家の領土に飲み込まれそうな状況にあり、国内の貴族たちにも不穏な空気が流れていた。ブランシュは孤軍奮闘し、1226年に亡夫の異母弟フィリップ・ユルプルら反逆貴族たちを撃破し、1230年に侵入したヘンリー3世を追い払った。またこの頃、シャンパーニュ伯ティボー4世が彼女に捧げた情熱的な詩のために、ブランシュは「ふしだら」と中傷され、パリ滞在中の教皇特使、サンタンジェロ枢機卿ロマーノ・ボナヴェンチュラが逗留を延長する羽目になった。 ブランシュはアルビジョア十字軍を継続し、諸侯の反乱を抑え、巧みな外交術で味方に引き入れ、反対派の貴族を崩壊させた。ルイ9世は常に母ブランシュに自身の王国の舵取りを託しっぱなしであった。1229年にプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の長女マルグリットと結婚し、親政を始めてからも、ルイ9世は母の影響の下から脱することはなかった。1248年、ルイ9世が諸般の反対を押し切って第7回十字軍に加わり遠征に出ると、再びブランシュは摂政となった。 1252年、ブランシュはムランで病に倒れ、パリへ連れて行かれたが、数日後に死去した。遺体はモービュイッソン修道院に葬られた。
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