政治の表舞台へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 政治の表舞台への意味・解説 

政治の表舞台へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「政治の表舞台へ」の解説

1921年汪兆銘広東省教育会会長就任承諾し、ようやく政治的役職就いたこれを機に、汪の長い修養時代」は終わり、これより政治の表舞台に立つこととなる。しかし、孫文広東政府1922年6月直隷派内通していた広東軍閥陳炯明反乱により瓦解した孫文命からがら上海脱出しまた、同盟以来盟友起こした反乱であったため、失敗裏切りには慣れていたはずの孫文意気阻喪した。孫文にとって、そこから再起する方策が「連ソ・容共」の路線であった。なお、1922年には三女の汪文恂が生まれている。 1923年1月孫文ソビエト連邦政府代表アドリフ・ヨッフェとともに中国にとって最も緊急の課題民国統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈な共感をもって援助する」との共同宣言発し、「連ソ・容共路線鮮明にした。同年3月孫文北京政府反対する地方政権広東大元帥府組織したソ連は、政治顧問としてコミンテルン活動家ミハイル・ボロディンを、軍事顧問としてヴァシーリー・ブリュヘル通称ガレン)らを送って広東政府援助した孫文・ヨッフェ共同宣言では、ソビエト制度中国適合しない言及されていたにもかかわらず両者思想的差異認めたうえで連合し一方、党レベルでは「容共」つまり、中国国民党上位立ったうえで中国共産党受け容れる党内合作」の方法採用された。すなわち、全共産党員同時に個人資格国民党加入し二重党籍をもつというかたちである。中国共産党はこれに反対したが、コミンテルンその方式を押し切った。こうして第一次国共合作成立した。ただし、孫文の「赤化」を懸念する声が党の内外から上がった汪兆銘当初孫文推し進める国共合作には消極的だったといわれる。かれは、急進的な民族主義者として孫文したがい国民党左派率いて反帝国主義運動積極的に推し進めた一方アナーキズム影響もあってマルクス主義奉じるソビエト連邦中国共産党全面的な信頼を寄せることができなかったのであるこの年6月、汪夫婦にとっては革命同志であり、ともにヨーロッパで学んだ方君瑛(汪の腹心曾仲鳴の夫人方君璧の姉)が自殺している。彼女は、ボルドー大学数学学び中国人女子留学生として初の博士号取得した才女であったまた、同年9月には学校設立のために在米華僑から募金集めるためアメリカ合衆国渡った夫妻が、その地で次男もうけたが、1か月足らず肺炎のため亡くしてしまった。 1924年民国13年1月広州ひらかれた中国国民党第一回全国大会では、ソ連制度模倣した中央執行委員会体制つくられた。中央執行委員総員24名で、汪兆銘胡漢民廖仲愷などのほか、李大釗ら3名の共産党員含まれていた。また、中央執行委員候補17名中、共産党員毛沢東ら7名に及んだ。汪は、孫文個人的連絡係のほか、国民党中央執行委員会委員宣伝部長の要職につき、胡漢民とともに党の双璧となった。 汪はこのころ覇権主義的な姿勢強めた日本を「中国災難世界の不幸」とみなすようになり、「我々に残され唯一の道は、日本抵抗することである」と述べ日本に対して強い敵愾心をいだくようになっていた。汪兆銘は、国民党にあっては孫文直系位置にあり、配下有力者である陳公博周仏海はともに中国共産党設立かかわった。 党の改組同様に重要なのは、党の軍隊創設である。陳炯明反乱教訓に、孫文ソ連赤軍のように思想的武装した党軍(国民革命軍)の必要性痛切に感じており、廖仲愷党代表選び1924年5月蔣介石黄埔軍官学校準備委員長命じた。蔣をこの学校校長にと強く推薦したのは汪の妻の陳璧君であった。なお、汪は、5月3日開校式に出席し講演をおこなっている。 一方北方では、袁世凱亡き後北京政府実権握っていた北方軍閥の巨頭段祺瑞が、日本における原内閣成立によって後ろ盾失い競争者である直隷派争って敗れ、いったん失脚した。ところが直隷派軍閥曹錕旧国会議員買収して大総統となったことで国民顰蹙買って大混乱となり、張作霖率い奉天軍が北京入城したものの民心が服さず段祺瑞再出馬を要請するという事態が生じた段祺瑞広東にあった孫文招請した。1924年11月孫文北上宣言発し、汪をともなって日本汽船乗り込み北京入りして提携模索したが、途中日本立ち寄っている。日本政府は、しかし「赤化」した孫文東京入りを許さなかった。このとき、孫文神戸高等女学校で「大亜細亜主義」の講演行っている。このなかで孫文は、日本功利強権ほしいままにする「西洋覇道番犬」となるか、それとも公理立った東洋王道牙城」となるかを聴衆問いかけ中国のみならずアジア抑圧民族解放助力することがアジア最初に独立富強達成した日本進路ではないか訴えた。しかし、この講演孫文最後のものとなった北京に着くや彼は肝臓癌入院してしまったのである汪兆銘は、1925年3月孫文死去に際しては、「革命未成功同志仍須努力革命なお未だ成功せず同志よって須く努力すべし)」との一節有名な遺言孫文遺嘱)を記した。汪はこれを、病床にあった孫文から同意得た伝えられており、蔣介石義兄にあたる宋子文孫文の子孫科呉稚暉何香凝らが証明者として名を連ね遺書には汪兆銘が「筆記者」として筆頭記されている。

※この「政治の表舞台へ」の解説は、「汪兆銘」の解説の一部です。
「政治の表舞台へ」を含む「汪兆銘」の記事については、「汪兆銘」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「政治の表舞台へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「政治の表舞台へ」の関連用語

政治の表舞台へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



政治の表舞台へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの汪兆銘 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS