政治の破綻
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後趙の横海将軍王華は水軍を率いて海道より前燕の安平を攻め、これを攻略した。 342年12月、石虎は鄴に宮室を盛んに建設し、台観(楼台)を40余り建てた。長安・洛陽の二宮にも造営され、この作役に関わった人は40万を越えた。さらに、鄴から襄国へ繋がる閣道も作りたいと考えた。 また、勅令を出して河南4州には南伐(東晋)の、并・朔・秦・雍の4州には西討(前涼)の、青・冀・幽の3州には東征(前燕)の準備をさせ、いずれも成人男子が3人いれば2人、5人いれば3人を徴兵させた。諸州で建造または徴兵に関与した者は50万人に及んだ。また、船夫17万人が水害により没し、虎狼に襲われて亡くなった者は3分の一を数えた。公侯・牧宰は競って私利を貪ったため、百姓の多くが失業して困窮し、その数は10の内7にまで及んだ。 貝丘出身の李弘という人物は、衆心の怨嗟に満ちている事から、姓名が讖(予言)に応じたと自称して、遂に姦党と結託して百僚を設置した。だが、石虎はこの事を知ると、すぐさま捕らえて誅殺し、さらに連座で数千家を殺害した。 石虎は狩猟・微行を頻繁に行っていたので、韋謏はこれを諫めて「臣が聞くところによりますと、千金の子というのは座す時には堂に垂れず、万乗の主というのは危には近寄らないとのことです。陛下は天生の神武を有し、四海に雄拠し、乾坤が深く賛じる所であり、慮いは万に一つもありません。しかしながら、白龍であっても魚服で出たならば、豫且(春秋時代宋の人)の禍があるとも言います。海若であっても潜遊すれば、葛陂の酷に罹するともいいます。深く願うのは、陛下が宮を清し路を蹕し、二神(白龍と海若)を模範とする事です。天下の重を疎かにしてはならず、斤斧の間を軽行すべきではありません。ひとたび狂夫が変を起こせば、龍騰の勇であっても対処する暇はなく、智士の計であっても設ける暇などありますまい!古えより聖王の宮室造営が、三農の隙に始められたのは、農時を奪わないためでした。しかし今、耕耘の盛んな時期であり、あるいは収穫の月で役を患っている所です。その為、頓斃した者が道に溢れ、怨声が路を塞いでおります。これは誠に聖君仁后が忍ぶ所ではありません。その昔、漢明(前漢の明帝)は賢君でありましたが、鍾離(鍾離意)の一言により徳陽の役を中止させました。臣はこの昔士を知り、誠に恥じ入るばかりです。言無くとも正しい選択が出来たらば、陛下の道は前王を越えたといえましょう。哀覧される事を願います」と述べると、石虎は韋謏を称賛し、穀帛を下賜した。しかし、建造・修繕は増加し、出歩く事も止めなかった。 秦公石韜は石虎から寵愛されていたので、太子石宣はこれを妬んでいた。その為、五兵尚書を領していた張離と結託し『秦・燕・義陽・楽平の四公(石韜・石斌・石鑑・石苞)は吏197人、帳下兵200人を置く事とし、それ以下の者は3分の1を置く事を認める。これにより余った兵5万は全て東宮(皇太子の宮殿)に配備するものとする』と定めた。これにより諸公は恨み、その溝はますます広がった。 征北将軍張挙を雁門より出撃させて索頭郁鞠の征伐を命じ、張挙はこれを撃ち破った。 石虎は制を下して「征士5人で車1乗・牛2頭・米を各々15斛・絹10匹を供出する事とする。用意できなかった者は、斬刑を以って論ず」と発し、江表を攻略する準備を行った。だが、百姓の生活は困窮しており、子を売って調達しようとしても、それでも用意出来なかった。その為、道路にはただ死を望む者が溢れかえり、このような者が後を立たなかった。 後趙の寧遠将軍劉寧は武都の狄道へ侵攻し、これを陥落させた。 343年7月、後趙の汝南郡太守戴開は数千の兵を率い、東晋の荊州刺史庾翼に降った。 8月、皇太子石宣に兵を与えて鮮卑斛谷提の討伐を命じた。石宣は出撃すると、斛谷提を大破して3万の首級を挙げた。 石虎は再び州郡の吏馬1万4千匹余りを収奪すると、曜武関の将兵に分配した。また、馬主についてはみな税を1年免除した。 宇文部の大人宇文逸豆帰は逃亡中であった段遼の弟段蘭を捕らえ、駿馬1万匹と共に後趙へと送った。石虎は段蘭の罪を赦し、鮮卑五千人を与えて元々の段部の本拠地であった遼西郡令支県に駐屯させた。これにより、後趙の従属化にはあったものの、段部は復興する事となった。だが、段蘭は度々後趙に背いては石虎を煩わしたという。 344年1月、石虎は太武殿で群臣を宴会を行うと、白雁百羽余りが馬道に南に集まった。石虎はこれを射る様命じたが、誰も当てる事が出来なかった。趙攬は密かに石虎へ「白雁が庭に集うのは、宮室が将に空となる象徴です。南へ行くべきではありません」と告げた。石虎はこの時、三方へ出征を計画しており、諸州の兵百万余りを集めていたが、趙攬の進言を聞き入れて征伐を中止し、宣武観において閲兵を行うのみに留めた。 燕公石斌を使持節、侍中、大司馬、録尚書事に任じた。また、左右の戎昭将軍・曜武将軍を新設して位を左右の衛将軍の上とし、東宮には左右の統将軍を設けて位を四率の上とした。さらに、上・中光禄大夫を置いて左右光禄大夫の上とし、鎮衛将軍を置いて車騎将軍の上とした。 同月、前燕は宇文部討伐の兵を興した。宇文部は以前より後趙に甚だ謹ましく仕え、代々に渡って貢献を続けていた。その為、前燕が宇文部へ侵攻したと聞き、石虎は右将軍白勝・并州刺史王覇を甘松より出撃させ、救援を命じた。だが、既に宇文部は滅ぼされていたので、彼らは方針を変えて威徳城へ侵攻したが、勝利できずに撤退した。この時、前燕の将軍慕容彪より追撃を受け、白勝らは撃ち破られた。 4月、後趙の将軍王擢は三交城において前涼の寧戎校尉張瓘と交戦するも、敗北を喫した。 石宣の淫虐は日を追う毎に悪化していたが、これを石虎に告げようとする者はいなかった。ただ、領軍王朗は石虎を諫めて「今年は寒さが厳しく雪も多く降りましたが、皇太子(石宣)は人を使って宮廷の木を伐採させ、漳河から水を引き込みました。徴発された者は数万人に及び、怨嗟の声が満ちております。陛下はこのような状況で出遊なさるべきではないかと」と述べると、石虎はこれに従ったが、石宣はこの発言に憤り、王朗の殺害を考えるようになった。同月、熒惑(火星)が房宿に入るという出来事が起こると、石宣はこれを機に王朗を陥れる事を考え、太史令趙攬に命じて上言させて「房とは天王の事であり、今熒惑がこれに入りました。その禍は些細なものではありません。貴臣で王姓の者を処断し、これを対処すべきです」と勧めると、石虎は「誰をそうすべきか」と問うた。趙攬は「王領軍(王朗)より貴いものはおりません」と答えたが、石虎は王朗の才を惜しみ、趙攬へその次について尋ねた。すると、趙攬は「その次は中書監王波であります」と述べた。これにより石虎は詔を下して王波の過去の失敗(李閎を成漢に帰還させた件)を蒸し返して罪に問い、これを腰斬に処した。彼の4人の子も同罪となり、屍は漳水に投げ込まれた。しばらくして、石虎は無実にも関わらず処断してしまった事を憐れみ、王波に司空を追贈してその孫を侯に封じた。 後趙の平北将軍尹農は前燕の凡城を攻めたが、勝利できずに撤退した。石虎は伊農を庶人に落とした。 東晋の征西将軍庾翼は梁州刺史桓宣を派遣し、後趙の将軍李羆を丹水において攻めたが、李羆はこれを返り討ちにした。 義陽公石鑑は関中の統治を任されていたが、石鑑はしばしば民を労役に駆り出し、さらに重い税を課していたので人心を失っていた。345年1月、友人である李松は石鑑へ「文武官で長髮な者から、その髪を抜いて冠纓とし、残りは宮人に与えるのです」と勧めた。石鑑はこれに従ったが、髪を抜かれた長史はこの一件を石虎へ報告した。これを聞いた石虎は激怒し、右僕射張離を征西左長史・龍驤将軍・雍州刺史に任じて調査を命じた。その結果事実であった事が判明すると、石虎は石鑑を更迭して鄴に呼び戻し、李松を逮捕した。代わって石苞が長安の統治を任された。 石虎はかねてより狩猟を好んでいたが、晩年になると身体が重くなり、鞍に跨る事が出来なくなった。その為、猟車千乗を造らせ、その轅長は3丈、高さ1丈8尺、網の高さ1丈7尺であった。また、格獣車40乗を造らせ、三級の楼車二層をその上に立て、期日を定めて猟に出た。そして、霊昌津を出て南は滎陽まで、東は陽都までを猟場とするため、御史にその範囲について監察させた。また、獣を捕えたり罪を犯した者は大辟(死刑)とした。御史はこれを利用して威福を独占し、百姓で美女や良い牛馬を所有している者にはそれを差し出すよう命じ、応じなかった者は獣を捕らえる罪を犯したと誡告した。これにより、100家余りが死罪となり、海岱・河済の間にいる人々は安心する事が出来なくなった。 石虎は雍・洛・秦・并の4州より16万人を徴発し、長安に未央宮を造営させた。さらに諸州より26万人を徴発し、洛陽宮の修復に当てた。また、百姓から牛2万頭余りを徴発し、朔州の牧官に分配した。 女官24等、東宮12等を増置し、諸公侯70国余りにもみな女官9等を置いた。これより以前、百姓の娘で13歳以上20歳以下の者3万人余りを大々的に徴発し集め、3等の邸宅に分配した。郡県ではその旨に従い、自らの昇進の為に美淑な者を集める事に躍起になり、9千人余りの婦人が強奪された。また、百姓の妻で美色のある者は、豪族がその夫を脅迫して自殺に追い込む事態が発生し、殺されるか自殺した夫は三千人余りに及んだ。石宣や諸公もまた私的に命を降して女を集め、これも1万に及んだ。集められた全てが鄴宮に集められると、石虎は簡第において諸女と面会し、大いに喜んだ。そして、12人もの使者が列侯に封じられた。これにより荊・楚・揚・徐の地の間では人民が流離してしまい、殆どいなくなった。宰守もまたこの事態に対処する事が出来ず、獄に下されて誅殺された者は50人を越えた。金紫光禄大夫逯明は幾度も固く石虎を諫めたが、石虎は激怒して龍騰中郎を派遣して逯明を拉致し、殺害させた。これにより朝臣は口を閉ざすようになり、仕官してもただ禄を食むだけとなった。 石虎はいつも女騎兵千人を行幸の際には陳列させ、全員に紫の綸巾・熟錦の袴・金銀を散りばめた帯・五文に織成した靴を身に着けさせ、戲馬観へ出遊した。観上には詔書の五色紙が木で出来た鳳の口に置かれてあり、鹿盧(滑車)を回転させると、あたかも飛翔しているかのように見えた。 8月、東晋の豫州刺史路永が反乱を起こして後趙に降った。石虎は路永を寿春に駐屯させた。 12月、冠軍将軍姚弋仲に持節を与え、十郡六夷大都督・冠軍大将軍に任じた。 石虎は征東将軍鄧恒に数万の将兵を与えて楽安に駐屯させ、攻具を準備させて前燕攻略を計画させた。これに対して慕容皝は平狄将軍慕容覇(後の慕容垂)を派遣して徒河を防衛させた。鄧恒はこれを恐れ、侵犯する事が出来なかった。 346年5月、後趙の中黄門厳生は尚書朱軌に恨みを抱いており、当時長雨が続いて道路整備が滞っていた事もあり、厳生は朱軌が道路の補修を怠り、さらに朝政を誹謗していると讒言した。その為、石虎は朱軌を捕らえたが、蒲洪は「陛下は既に襄国・鄴の宮殿を有しており、その上で長安・洛陽の宮殿を修復しておられます。一体これを何に用いるというのでしょう。また、猟車を千乗も造り、数千里も囲って禽獣を養われ、人妻10万人余りを奪って後宮に入れておられます。聖帝明王がこのような事を為しましょうか?今また、道路が修繕されていないという理由で尚書を殺そうとしておられますが、これは陛下が徳のある政治を修められない事から、天が7旬にも及んで淫雨を降らせたのが原因ではないでしょうか。しかも。晴れてからまだ2日であり、これでは100万の鬼兵を用いたといえども、道路の破損を除く事など出来ません。ましてや、これは人がやる事です!政刑がこのようでは、四海はどうなりましょうか!後の代はどうなりましょうか!願わくばこの作役を中止し、苑囿(動物の囲い場)を廃止し、宮女を返し、朱軌を赦免し、衆人の望みに応えて下さいますよう」と、強く諫言した。石虎はこれを快く思わなかったが、蒲洪を処罰する事は無かった。また、長安と洛陽の労役については中止としたが、朱軌は処刑された。これ以降、石虎は「私論朝政の法」を立法し、官吏がその上司を、奴隷がその主人を告発することを許可したが、これによって公卿以下の朝臣は目を合わせて意思を疎通させるようになり、必要以上に談話しなくなった。
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