政治の破綻とは? わかりやすく解説

政治の破綻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)

石虎」の記事における「政治の破綻」の解説

後趙の横海将軍王華水軍率いて海道より前燕安平攻め、これを攻略した342年12月石虎は鄴に宮室盛んに建設し台観楼台)を40余り建てた長安洛陽二宮にも造営され、この作役に関わった人は40越えた。さらに、鄴から襄国へ繋がる閣道も作りたい考えたまた、勅令出して河南4州には南伐(東晋)の、并・朔・秦・雍の4州には西討(前涼)の、青・冀・幽の3州には東征前燕)の準備をさせ、いずれも成人男子が3人いれば2人、5人いれば3人を徴兵させた。諸州で建造または徴兵関与した者は50万人及んだまた、船夫17万人水害により没し虎狼襲われ亡くなった者は3分の一を数えた公侯牧宰競って私利貪ったため、百姓多く失業して困窮し、その数は10の内7にまで及んだ貝丘出身李弘という人物は、衆心怨嗟満ちている事から、姓名が讖(予言)に応じた自称して遂に姦党と結託して百僚設置した。だが、石虎はこの事を知ると、すぐさま捕らえて誅殺し、さらに連座数千家を殺害した石虎狩猟微行頻繁に行っていたので、韋謏はこれを諫めて「臣が聞くところによりますと、千金の子というのは座す時には堂に垂れず、万乗の主というのは危には近寄らないとのことです。陛下天生神武有し四海に雄拠し、乾坤深く賛じる所であり、慮いは万に一つもありません。しかしながら白龍であっても服で出たならば、豫且(春秋時代宋の人)の禍があるとも言います海若であっても潜遊すれば、陂の酷に罹するともいいます深く願うのは、陛下が宮を清し路を蹕し、二神白龍海若)を模範とする事です。天下の重を疎かにしてはならず、斤斧の間を軽行すべきではありません。ひとたび狂夫が変を起こせば、龍騰の勇であっても対処する暇はなく、智士の計であっても設ける暇などありますまい!古えより聖王宮室造営が、三農の隙に始められたのは、農時奪わないためでした。しかし今、耕耘盛んな時期であり、あるいは収穫の月で役を患っている所です。その為、頓斃した者が道に溢れ怨声が路を塞いでおります。これは誠に聖君仁后が忍ぶ所ではありません。その昔、漢明(前漢明帝)は賢君ありましたが、鍾離鍾離意)の一言により徳陽の役を中止させました。臣はこの昔士を知り誠に恥じ入るばかりです。言無くとも正し選択出来たらば、陛下の道は前王越えたといえましょう。哀覧される事を願います」と述べると、石虎韋謏称賛し、穀帛を下賜した。しかし、建造修繕増加し出歩く事も止めなかった。 秦公石韜石虎から寵愛されていたので、太子石宣はこれを妬んでいた。その為、五兵尚書領していた張離結託し『秦・燕・義陽楽平の四公(石韜石斌石鑑石苞)は吏197人、帳下兵200人を置く事とし、それ以下の者は3分の1を置く事を認める。これにより余った5万全て東宮皇太子の宮殿)に配備するものとする』と定めた。これにより諸公恨み、その溝はますます広がった。 征北将軍張挙雁門より出撃させて索頭郁鞠の征伐命じ張挙はこれを撃ち破った石虎は制を下して「征士5人で車1乗・牛2頭・米を各々15斛・絹10匹を供出する事とする用意できなかった者は、斬刑以って論ず」と発し、江表を攻略する準備行った。だが、百姓の生活は困窮しており、子を売って調達しようとしても、それでも用意出来なかった。その為、道路にはただ死を望む者が溢れかえり、このような者が後を立たなかった。 後趙寧遠将軍劉寧武都狄道侵攻し、これを陥落させた。 343年7月後趙汝南郡太守戴開は数千の兵を率い東晋荊州刺史庾翼降った8月皇太子石宣に兵を与えて鮮卑斛谷提の討伐命じた石宣出撃すると、斛谷提を大破して3首級挙げた石虎は再び州郡の吏馬1万4千匹余り収奪すると、曜武関の将兵分配したまた、馬主についてはみな税を1年免除した宇文部大人宇文逸豆帰逃亡であった段遼の弟段蘭捕らえ駿馬1万と共に後趙へと送った石虎段蘭の罪を赦し鮮卑五千人を与えて元々の段部本拠地であった遼西郡令支県駐屯させた。これにより、後趙従属化にはあったものの、段部復興する事となった。だが、段蘭は度々後趙背いて石虎煩わしたという。 344年1月石虎は太武殿で群臣宴会を行うと、白雁百羽余り馬道に南に集まった石虎はこれを射る命じたが、誰も当てる事が出来なかった。趙攬密かに石虎へ「白雁が庭に集うのは、宮室将に空となる象徴です。南へ行くべきではありません」と告げた石虎はこの時、三方出征計画しており、諸州の兵百万余り集めていたが、趙攬進言聞き入れて征伐中止し、宣武観において閲兵を行うのみに留めた。 燕公石斌を使持節侍中大司馬録尚書事任じたまた、左右の戎昭将軍・曜武将軍を新設して位を左右衛将軍の上とし、東宮には左右の統将軍設けて位を四率の上とした。さらに、上・中光禄大夫置いて左右光禄大夫の上とし、鎮衛将軍置いて車騎将軍の上とした。 同月前燕宇文部討伐の兵を興した宇文部以前より後趙甚だ謹ましく仕え代々渡って貢献続けていた。その為、前燕宇文部侵攻した聞き石虎右将軍白勝并州刺史王覇甘松より出撃させ、救援命じた。だが、既に宇文部滅ぼされていたので、彼らは方針変えて威徳城へ侵攻したが、勝利できずに撤退した。この時、前燕将軍慕容彪より追撃を受け、白勝らは撃ち破られた。 4月後趙将軍王擢三交城において前涼の寧戎校尉張瓘交戦するも、敗北喫した石宣淫虐日を追う毎に悪化していたが、これを石虎告げようとする者はいなかった。ただ、領軍王朗石虎諫めて今年寒さ厳しく多く降りましたが、皇太子石宣)は人を使って宮廷の木を伐採させ、漳河から引き込みました徴発された者は数万人に及び、怨嗟の声が満ちております陛下このような状況出遊なさるべきではないかと」と述べると、石虎はこれに従ったが、石宣はこの発言憤り王朗殺害考えようになった同月熒惑火星)が房宿に入るという出来事が起こると、石宣これを機に王朗陥れる事を考え太史令趙攬命じて上言させて「房とは天王の事であり、今熒惑がこれに入りました。その禍は些細なものではありません。貴臣で王姓の者を処断し、これを対処すべきです」と勧めると、石虎は「誰をそうすべきか」と問うた。趙攬は「王領軍(王朗)より貴いものはおりません」と答えたが、石虎王朗の才を惜しみ趙攬へその次について尋ねた。すると、趙攬は「その次は中書監王波であります」と述べた。これにより石虎は詔を下して王波過去失敗閎を成漢帰還させた件)を蒸し返して罪に問い、これを腰斬処した彼の4人の子同罪となり、屍は漳水投げ込まれた。しばらくして石虎無実にも関わらず処断してしまった事を憐れみ王波司空追贈してその孫を侯に封じた後趙平北将軍尹農は前燕の凡城を攻めたが、勝利できずに撤退した石虎は伊農を庶人落とした東晋征西将軍庾翼梁州刺史桓宣派遣し後趙将軍羆を丹水において攻めたが、羆はこれを返り討ちにした。 義陽石鑑関中統治任されていたが、石鑑はしばしば民を労役駆り出し、さらに重い税を課していたので人心失っていた。345年1月友人である李松石鑑へ「文武官で長髮な者から、その髪を抜いて冠纓とし、残り宮人与えるのです」と勧めた石鑑はこれに従ったが、髪を抜かれ長史はこの一件石虎報告した。これを聞いた石虎激怒し右僕射張離征西長史龍驤将軍雍州刺史任じて調査命じたその結果事実であった事が判明すると、石虎石鑑更迭して鄴に呼び戻し李松逮捕した。代わって石苞長安統治任された。 石虎かねてより狩猟好んでいたが、晩年になると身体重くなり、鞍に跨る事が出来なくなった。その為、猟車千乗を造らせ、その轅長は3丈、高さ1丈8尺、網の高さ1丈7尺であったまた、40乗を造らせ、三級の二層その上に立て期日定めて猟に出た。そして、霊昌津を出て南は滎陽まで、東は陽都までを猟場とするため、御史その範囲について監察させた。また、を捕えたり罪を犯した者は大辟死刑)とした。御史はこれを利用して威福独占し百姓美女良い牛馬所有している者にはそれを差し出すよう命じ応じなかった者は捕らえる罪を犯した誡告した。これにより、100余り死罪となり、海岱・河済の間にいる人々安心する事が出来なくなった石虎は雍・洛・秦・并の4州より16万人徴発し、長安未央宮造営させた。さらに諸州より26万人徴発し、洛陽宮の修復当てたまた、百姓から牛2万余り徴発し、朔州の牧官に分配した女官24等、東宮12等を増置し、諸公70余りにもみな女官9等を置いた。これより以前百姓の娘で13歳以上20歳以下の者3万人余り大々的徴発集め3等邸宅分配した。郡県ではその旨従い、自らの昇進為に美淑な者を集める事に躍起になり、9千人余り婦人強奪された。また、百姓の妻で美色のある者は、豪族がその夫を脅迫して自殺追い込む事態発生し殺される自殺した夫は三千余りに及んだ石宣諸公もまた私的に命を降して女を集め、これも1万及んだ集められ全てが鄴宮に集められると、石虎は簡第において諸女と面会し大い喜んだ。そして、12人もの使者列侯封じられた。これにより・揚・徐の地の間では人民流離してしまい、殆どいなくなった。宰守もまたこの事態対処する事が出来ず、獄に下されて誅殺された者は50人を越えた金紫光禄大夫逯明は幾度も固く石虎諫めたが、石虎激怒して龍騰中郎を派遣して逯明を拉致し、殺害させた。これにより朝臣口を閉ざすようになり、仕官してもただ禄を食むだけとなった石虎はいつも女騎兵千人行幸の際には陳列させ、全員紫の綸巾・熟錦の袴・金銀散りばめた帯・五文に織成した靴を身に着けさせ、戲馬観へ出遊した。観上には詔書五色紙が木で出来たの口に置かれてあり、鹿盧(滑車)を回転させると、あたかも飛翔しているかのように見えた8月東晋豫州刺史路永が反乱起こして後趙降った石虎は路永を寿春駐屯させた。 12月冠軍将軍姚弋仲持節与え、十郡六夷大都督・冠軍大将軍任じた石虎征東将軍鄧恒に数万将兵与えて楽安駐屯させ、攻具準備させて前燕攻略計画させた。これに対して慕容皝は平狄将軍慕容覇(後の慕容垂)を派遣して徒河防衛させた。鄧恒はこれを恐れ侵犯する事が出来なかった。 346年5月後趙中黄門厳生は尚書軌に恨み抱いており、当時長雨続いて道路整備滞っていた事もあり、厳生は軌が道路補修怠り、さらに朝政誹謗していると讒言した。その為、石虎軌を捕らえたが、蒲洪は「陛下は既に襄国・鄴の宮殿有しており、その上で長安洛陽宮殿修復しておられます。一体これを何に用いるというのでしょうまた、猟車を千乗造り数千里も囲って禽獣養われ人妻10万余り奪って後宮入れておられます聖帝明王このような事を為しましょうか?今また、道路修繕されていないという理由尚書殺そうとしておられますが、これは陛下が徳のある政治修められない事から、天が7旬にも及んで淫雨降らせたのが原因ではないでしょうか。しかも。晴れてからまだ2日であり、これでは100万の鬼兵を用いたといえども道路破損を除く事など出来ません。ましてや、これは人がやる事です!政刑このようでは、四海どうなりましょうか!後の代はどうなりましょうか願わくばこの作役を中止し苑囿動物囲い場)を廃止し宮女返し軌を赦免し衆人望み応えて下さいますよう」と、強く諫言した。石虎はこれを快く思わなかったが、蒲洪処罰する事は無かったまた、長安洛陽労役については中止としたが、軌は処刑された。これ以降石虎は「私論朝政の法」を立法し、官吏がその上司を、奴隷がその主人告発することを許可したが、これによって公卿以下の朝臣は目を合わせて意思疎通させるようになり、必要以上に談話しなくなった

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