皇太子の宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 20:57 UTC 版)
パヴロフスクの歴史は、1777年に皇帝エカチェリーナ2世が息子パーヴェル(後の皇帝パーヴェル1世)に第一子アレクサンドル(後のアレクサンドル1世)が生まれたことを祝って、スラヴャンスカ川に沿った362デシャチーナ(395ヘクタール)ほどの土地をパーヴェルに与えたことに始まる。パヴロフスクという地名は、パーヴェルの名にちなんでつけられた。 最初はマリエンタール(Marienthal)とパウルスト(Paullust)というドイツ風の小さな邸宅が控えめに建っていたが、やがて手狭となり大きな宮殿を建てる計画が立ち上がった。1780年、スコットランド人の建築家でエカチェリーナ2世の宮廷に使えていたチャールズ・キャメロン(Charles Cameron)が、パヴロフスクでの宮殿造営の責任者となった。彼は2年後、新古典主義様式の大宮殿のデザインを提案し、パーヴェルに承認された。宮殿の周辺には広大な英国式庭園が造られ、その中に多くの神殿風の廃墟、キオスク、コロネード(列柱)、石橋、彫刻などを配した。宮殿と庭園の建設には多くのイタリア人やロシア人の建築家が関わり、1786年に建物が完成した。 1796年にパーヴェルが皇帝パーヴェル1世として戴冠すると、パヴロフスク宮殿の周囲の集落は都市といえるほどに大きくなった。パーヴェル1世の皇后のマリア・フョードロヴナ(ゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルク)はその後も営々と庭園を拡張し続け、現在見るような立派な庭園を完成させた。パーヴェル1世の死後、パヴロフスク宮殿は皇后マリア・フョードロヴナが所有を宣言し、その後は皇族ロマノフ家のコンスタンチノヴィチ系の家族へと渡された。
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