皇太子石邃誅殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
石邃は幼い頃より雄々しく聡明であり、成長すると勇猛となったので、石虎は常々彼を寵愛していた。その為、いつも群臣へ「司馬氏は父子兄弟で互いを滅ぼしあった。故に朕はここに至る事が出来た。もしそうでなかったならば、我にどうして今日があったであろうか。だが、朕には阿鉄(石邃の幼名)を殺す理否などありはせぬ」と語ると、左右の側近はみな「陛下は慈父であり、子は孝であります。どうしてそのようなことになりましょう」と答えたという。 しかし、石邃は百官を統率する立場になって以降、酒色に溺れて驕りたかぶるようになり、人の道に背く行為を行うようになった。いつも狩りや遊びに興じ、鼓楽が鳴り響くと宮殿に帰った。ある夜に宮臣の家に侵入すると、その妻妾と淫らな行為に及んだ事もあった。また、着飾った美しい宮人がいれば、その首を斬り落として血を洗い落とし、盤の上に載せては賓客と共にこれを鑑賞した。さらに、諸々の比丘尼で容貌が美しい者がいれば、強姦した後に殺害し、牛羊の肉と共に煮込み、これを食したという。左右の側近にもその肉を振る舞い、その味を知らせようとした。 また、石虎は河間公石宣・楽安公石韜(石邃の異母弟)もまた石邃同様に寵愛していたが、石邃はこれに嫉妬して彼らを仇敵のように恨んでいたという。 6月、石邃は尚書の事案を採決していた時、事あるごとに石虎に相談していたが、石虎はこれを患って「このような小事、報告するには足りぬ!」と怒った。またある時、石邃が相談しなかった事に不満を抱いて「どうして何も報告しなかった!」と怒った。一か月のうちに幾度も石虎より叱責を受け、鞭で打たれた事もしばしばであった。その為、石邃は私的な場で側近の中庶子李顔らへ、石虎の殺害を仄めかす様になった。 7月、石邃は病と称して政務を執らなくなり、密かに文武の宮臣500騎余りを率いて李顔の別宅において飲み交わした。この時、酔った勢いで河間公石宣の殺害を宣言すると、騎兵を従えてそのまま出撃したが、李顔らの反対と酔いが回った事により結局中止して家へ帰った。母の鄭桜桃はこの一件を知ると、石邃を諭そうとして宦官を派遣したが、石邃は怒ってその宦官を殺した。 かつて、仏図澄は石虎へ「陛下は幾度も東宮(皇太子の宮殿)へ赴かれるべきではありません」と語った事があった。石虎は石邃が病に罹ったと聞いて見舞いに行こうと思ったが、石邃の悪評は石虎の耳にも届いていたので、仏図澄の発言を思い出して行くのを中止した。その後、石虎は目を剥いて大言で「我は天下の主となった。それなのに、父子で互いに信じあえぬとは!」と叫び、信任している女尚書に命じて石邃の動向を窺わせた。石邃は依然として同じこと(石虎殺害かまたは石宣殺害)を叫び、剣を引き抜いて彼女を斬りつけた。石虎は怒り、側近の李顔ら30人余りを捕らえると、彼らへ詰問した。すると李顔はそれまでの経緯を具に語ったので、石虎は李顔ら30人余りを誅殺すると、石邃を東宮に幽閉した。 しばらくすると石邃を赦免し、太武東堂において引見した。だが、石邃は一切謝罪せずにすぐに退出してしまったので、石虎は使者を派遣して「太子が中宮において朝に応じたのだぞ、どうして邃(石邃)は去ってよいだろうか!」と告げさせた。だが、石邃は振り返らずに出て行った。これに石虎は激怒し、遂に石邃を廃して庶人に落とし、その夜に殺害した。妃の張氏や男女26人もまた併せて誅殺し、同一の棺に入れて埋めた。連座により宮臣・支党200人余りを誅殺し、鄭桜桃を東海太妃に落とした。代わって石宣を天王皇太子に立て、石宣の母である昭儀杜珠を天王皇后に立てた。
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