皇太子殺害と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:25 UTC 版)
郭槐は病に倒れると、死の間際に賈南風の手を取り、司馬遹との関係を改善するよう求め、また「趙粲(武帝の妃妾)と賈午は家事を乱すので、私の死後、近づけてはなりません」と言い残した。だが、賈南風はこれに従わず、趙粲・賈午と謀議して司馬遹を害する計画を練った。司馬遹は成長すると勉学を好まず、近臣と遊び惚けていたので、賈南風は宦官を用いて司馬遹を誘い、更に遊興に耽らせて評判を落とさせた。 12月、賈南風は恵帝が病に倒れた、と司馬遹に伝えて入朝を命じ、宮殿に来た司馬遹を別室に入れると、恵帝の命と称して三升の酒を飲ませ、酩酊状態に陥らせた。そして黄門侍郎潘岳に「私と謝妃(謝玖、司馬遹の母)は共に議論し、恵帝と賈皇后を廃す事を決めた」という文章を用意させると、司馬遹に筆と紙を渡し、詔と偽って同じ内容を書くよう命じた。これを読んだ恵帝は司馬遹の処刑を決意したが、ここで腹心の張華らが頑なに反対したので、賈南風は次第に政変を恐れるようになり、司馬遹の処刑を諦めて庶人に落とすよう進言し、恵帝はこれに同意した。司馬遹は庶人となり、王夫人や息子の司馬虨・司馬臧・司馬尚らと共に金墉城に監禁された。司馬遹の生母の謝玖と妻の一人の蔣俊(司馬虨の母)は殺された。 これに憤った司馬遹の元部下であった右衛督司馬雅・常従督許超らは、賈南風を廃して皇太子の復位を果たさせる事を目論み、強大な兵権を握る趙王司馬倫に協力を仰ぐべく、司馬倫の腹心の孫秀へ協力を持ち掛けた。しかし孫秀は賈南風廃立の謀略をわざと漏らして賈南風に司馬遹を殺害させ、その後仇を取るという大義名分で賈南風を廃して政権を掌握する事を提案した。かくして賈南風廃立・皇太子復位の計画の噂が流れると、賈南風は各所に配置していた宮婢からこの情報を入手し、ついに部下の孫慮に命じて司馬遹を暗殺させた。 4月3日、司馬倫と孫秀は梁王司馬肜・斉王司馬冏らと共に賈南風討伐を決行し、宮中へと突入した。賈謐は異変に気付き逃げようとしたが、兵士に囲まれ、叫び声をあげて賈南風に助けを求めたがその場で殺された。司馬冏が「詔により皇后を捕らえに参りました」と述べると、賈南風は「詔をつくるのは我であるぞ!」と叫び、遠くにいる恵帝に向かって「陛下の妻が廃されようとしております。陛下もすぐに廃位に追い込まれることになりますぞ!」と述べた。事の首謀者が梁王(司馬肜)と趙王(司馬倫)であると知ると、賈南風は後悔して「犬の首ではなく、尾を繋いでいたのか!」と言ったという。こうして賈南風は庶人に落とされ、建始殿に幽閉された。賈氏一族も尽く捕らえられた。賈氏一族は皆殺しにされ、賈南風自身も9日、金屑酒(金粉入りの毒酒)を届けられて自殺させられた。
※この「皇太子殺害と最期」の解説は、「賈南風」の解説の一部です。
「皇太子殺害と最期」を含む「賈南風」の記事については、「賈南風」の概要を参照ください。
- 皇太子殺害と最期のページへのリンク