皇太子明仁親王の結婚と側近を巡る対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:19 UTC 版)
「香淳皇后」の記事における「皇太子明仁親王の結婚と側近を巡る対立」の解説
皇太子明仁親王(当時)と民間出身である正田美智子との婚約が決定された(当時の感覚では貴賤結婚)際には、婚約内定に前後した10月1日は秩父宮妃勢津子や高松宮妃喜久子に対し「東宮様のご縁談について平民からとはけしからん」などと強い不快感を示していた。また、夏の時点でも、両妃に加え松平信子に対して同様の趣旨を述べていたとされる。 『入江相政日記』においては、「松平が宮崎白蓮などとともに、正田家に婚姻辞退を迫るべく右翼団体を動かして圧力をかけようとした」と記述されている。香淳皇后自身は、成婚以後は表立って美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年(昭和50年)の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されており、後々まで尾を引いた。 1960年(昭和35年)11月、長女の東久邇成子が病に倒れた。すでに末期癌が進行し、翌年4月からは宮内庁病院に入院。最後の入院の間、天皇・皇后二人で28回、皇后単独で34回、私事のため人目を回避しながら見舞いに訪問したが、7月に東久邇成子は35歳で逝去した。天皇ともども愛娘の死に大きな衝撃と悲しみを受け、皇后は病室の外の聞こえるほど嗚咽した。一方、皇后は成子の病状が悪化する中、電気治療などの医業類似行為を進めようとし、侍医との関係に不和が生じた。 成子の逝去以降、香淳皇后は入江が「魔女」と呼ぶ女官今城誼子の影響を強く受けるようになった。昭和40年代、特に1966年(昭和41年)から1972年(昭和47年)にかけ今城を巡るトラブルが頻出した。『入江日記』によれば、今城は新興宗教に深く関わり、粗暴な言動で周囲の顰蹙を買っていたことから、同日記中に「魔女」と名づけられ登場する。 今城は、天皇・皇后の高齢化を鑑みて当時簡略化が進められていた宮中祭祀に皇后を介して口を挟み、また天皇皇后の欧州歴訪において皇后が今城の同行を強く求め、一時は天皇単独での訪問が検討される事態となった。皇后は1967年頃には今城を女官長に据えようとし、これに反対する高松宮夫妻らが松平信子を推す動きもあった。結局、1969年(昭和44年)4月に元皇族妃で高松宮妃とも交流があった北白川祥子が女官長に就任した。入江相政侍従長等の側近たちは天皇の同意を取り付けて、1971年(昭和46年)に今城を宮内庁から追放した。皇后は「解任を、最後まで惜しんだ」とされる。
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