皇太子擁立と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:18 UTC 版)
洛陽では飢饉が日を追うごとにひどくなり、漢の軍勢が次々と侵攻するようになったので、苟晞は上表して倉垣へ遷都するよう請うた。また、従事中郎劉会に船数十艘と護衛五百人を率いさせ、穀千斛こくを献上して懐帝を迎えさせようとした。懐帝は同意したが、公卿は洛陽で築いた財産を惜しんでいたので中々実行に移されなかった。 6月、漢の攻勢により洛陽が陥落すると、苟晞は王讃と共に倉垣に駐屯した。豫章王司馬端が苟晞の下へ逃げてくると、苟晞は群臣を率いて司馬端を奉じて皇太子に立て、行台(臨時の政府)を置いた。司馬端は承制し、苟晞を領太子太傅・都督中外諸軍事・録尚書事に任じ、倉垣から蒙城に駐屯させた。 苟晞の刑罰や法律はあまりにも過酷であったので、元遼西郡太守閻亨は文書で強く諌めたが、幾度も繰り返されると苟晞は怒って殺した。従事中郎明預は病床に伏せていたが、この一件を聞くと車で苟晞に会いに行って諫めたが、苟晞はこの諫言に耳を貸さなかったので、人心は次第に離れていった。加えて疫病と飢饉が起こったので、配下の温畿や傅宣は彼に反旗を翻した。 石勒が陽夏を攻めて王讃を滅ぼすと、そのまま蒙城を攻撃した。苟晞は敗れて捕らえられ、司馬端もまた捕えられた。苟晞は首を鎖でつながれたが、後に左司馬に任じられた。 1月余りした後、苟晞は王讃と共に反乱を起こそうと目論んだが、事前に発覚してしまい、弟の苟純と共に処刑された。石勒の気が変わって危険分子として殺害されたともいわれる。
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