皇太子擁立とは? わかりやすく解説

皇太子擁立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:56 UTC 版)

李雄 (成漢)」の記事における「皇太子擁立」の解説

323年隴西で涼王を自称していた陳安李雄帰順したが、陳安前趙劉曜滅ぼされた。仇池楊難敵前趙帰順していたが、陳安の死を聞いて大い恐れ、弟の楊堅と共に漢中逃れて李雄降伏し、子を人質差し出した。安北将軍稚は楊難敵身柄拘束したが、楊難敵から賄賂受け取ったため、楊難敵成都に送らずに武都に帰らせた。前趙軍が撤兵すると楊難敵武都拠点とし、成漢への帰順拒否したその後楊難敵険阻な地を頼みとして多く不法な行動をとったので、稚は後悔してこれを討ちたいと請うた。群臣はこれに反対したが、李雄聞き入れなかった。李雄稚の兄の中領軍琀と将軍楽次・費佗・李乾らを派遣して白水から下弁攻撃させ、さらに征東将軍李寿派遣して琀の弟である玝を従えて陰平攻撃させた。楊難敵は軍を覇権してこれを防いだので、李寿進軍できなかった。琀と稚は軍を進めて下弁至ったが、楊難敵は兵を派遣して退路断ち、さらに四方から攻撃して数千人を殺害し琀・稚を捕らえて殺した琀と稚は李雄の兄である李蕩の子であり、李雄は彼らを溺愛していた。特に琀はの長男才望があったので、後継ぎ立てよう考えていた。その為、李雄はその死を深く悼み数日渡って食を断ち、口にするたび涙を流して自らを責めたという。 李雄李驤命じて越巂攻撃させ、越巂郡太守李釗降伏した李驤はさらに進軍し寧州刺史王遜攻め王遜部下の姚岳に全軍与えて迎え撃たせた。李驤次第劣勢となり、数日前から降り続いた影響もあり、軍を戻して退却始めた。姚岳がこれを追撃すると、李驤の兵は先を争って瀘水渡ろうとし、溺死者が多発した。姚岳は瀘水まで出たところで引き返した。後に降伏した李釗成都到来すると、李雄は彼を厚遇し朝儀葬祭の礼を定めさせた。 324年李雄李蕩の子である李班太子立てようとした。李雄には子が十人余りいたので、群臣李雄の子立てるように請うたが、李雄は「我が起兵したのはただ禍を振り払うためであり、もともと帝王の業など願ったことはなかった。しかし、天下乱れて晋氏が流亡の身となったため、民衆苦しみから救うべく義挙をなした。そして、遂に諸君らに奉られ王公の上に立つこととなった。だが、もともと事業起こしたのは先帝李特)の功績よるものだ。そして、我が兄は嫡男正統受け継ぐ立場であり、徳に優れて聡明で天に選ばれ存在であったが、大事を成し遂げる直前不幸に戦没された。李班仁孝なる性格学問好み必ずや名君となる器である」と反論した。これに対して李驤司徒王達と共に諌め「嫡統に簒奪萌芽が起こることは防がなければなりません。呉子その子捨てて弟を立てたために専諸による禍を招くこととなり、宋の宣公は與夷を立てず穆公立てたことから宋督の変事招いたのです。願わくば陛下には深くこの事を考えて頂きますよう」と言ったが、李雄従わず李班太子立てた李驤退出すると涙を流して「これ以降乱が始まる」と言った

※この「皇太子擁立」の解説は、「李雄 (成漢)」の解説の一部です。
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