皇太子擁立
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323年、隴西で涼王を自称していた陳安が李雄に帰順したが、陳安は前趙の劉曜に滅ぼされた。仇池の楊難敵は前趙に帰順していたが、陳安の死を聞いて大いに恐れ、弟の楊堅頭と共に漢中へ逃れて李雄に降伏し、子を人質に差し出した。安北将軍李稚は楊難敵の身柄を拘束したが、楊難敵から賄賂を受け取ったため、楊難敵を成都に送らずに武都に帰らせた。前趙軍が撤兵すると楊難敵は武都を拠点とし、成漢への帰順を拒否した。その後、楊難敵は険阻な地を頼みとして多くの不法な行動をとったので、李稚は後悔してこれを討ちたいと請うた。群臣はこれに反対したが、李雄は聞き入れなかった。李雄は李稚の兄の中領軍李琀と将軍楽次・費佗・李乾らを派遣して白水橋から下弁を攻撃させ、さらに征東将軍李寿を派遣して李琀の弟である李玝を従えて陰平を攻撃させた。楊難敵は軍を覇権してこれを防いだので、李寿は進軍できなかった。李琀と李稚は軍を進めて下弁に至ったが、楊難敵は兵を派遣して退路を断ち、さらに四方から攻撃して数千人を殺害し、李琀・李稚を捕らえて殺した。李琀と李稚は李雄の兄である李蕩の子であり、李雄は彼らを溺愛していた。特に李琀はの長男で才望があったので、後継ぎに立てようと考えていた。その為、李雄はその死を深く悼み、数日に渡って食を断ち、口にするたび涙を流して自らを責めたという。 李雄は李驤に命じて越巂を攻撃させ、越巂郡太守李釗は降伏した。李驤はさらに進軍して寧州刺史王遜を攻め、王遜は部下の姚岳に全軍を与えて迎え撃たせた。李驤は次第に劣勢となり、数日前から降り続いた雨の影響もあり、軍を戻して退却を始めた。姚岳がこれを追撃すると、李驤の兵は先を争って瀘水を渡ろうとし、溺死者が多発した。姚岳は瀘水まで出たところで引き返した。後に降伏した李釗が成都に到来すると、李雄は彼を厚遇して朝儀・葬祭の礼を定めさせた。 324年、李雄は李蕩の子である李班を太子に立てようとした。李雄には子が十人余りいたので、群臣は李雄の子を立てるように請うたが、李雄は「我が起兵したのはただ禍を振り払うためであり、もともと帝王の業など願ったことはなかった。しかし、天下が乱れて晋氏が流亡の身となったため、民衆を苦しみから救うべく義挙をなした。そして、遂には諸君らに奉られ、王公の上に立つこととなった。だが、もともと事業を起こしたのは先帝(李特)の功績によるものだ。そして、我が兄は嫡男で正統を受け継ぐ立場であり、徳に優れて聡明で天に選ばれた存在であったが、大事を成し遂げる直前に不幸にも戦没された。李班は仁孝なる性格で学問を好み、必ずや名君となる器である」と反論した。これに対して李驤が司徒王達と共に諌め「嫡統に簒奪の萌芽が起こることは防がなければなりません。呉子はその子を捨てて弟を立てたために専諸による禍を招くこととなり、宋の宣公は與夷を立てずに穆公を立てたことから宋督の変事を招いたのです。願わくば陛下には深くこの事を考えて頂きますよう」と言ったが、李雄は従わずに李班を太子に立てた。李驤は退出すると涙を流して「これ以降乱が始まる」と言った。
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