皇太子妃時代
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結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王(当時)と節子(1900年撮影) 1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定された皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった。節子は、和装と洋装を計5回着替え、明治天皇と皇后美子への拝礼を含む多くの行事をこなした。 婚儀は従来の公家様式に代わる、新たな様式であり、婚礼の儀式や行事は、当時の最新マスメディアである新聞によって詳報され、一般市民の関心を集めた。そこで、翌1901年(明治34年)礼法講習会が日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに日本社会に広く普及していった。 結婚式の日の様子として、ドイツ帝国からの”お雇い外国人”であるエルヴィン・フォン・ベルツは「東宮はお元気な様子、妃は大変お美しい」と評した。一方、節子の恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨の評価を新聞に寄せた。 同年5月23日から6月7日にかけて皇太子同妃は、伊勢の神宮や神武天皇陵への奉告を含め、東海~近畿地方を旅行した。 還御した嘉仁親王と皇太子妃節子は、それぞれ別に国学、漢学、フランス語等の教育を受けた。成婚当時は教育係の老女官・万里小路幸子らに宮中における礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したという。後年には万里小路の指導が自分の素養に大きく役立ったと感謝していた。当時は、皇太子は後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王は単独で代々木の練兵場や葉山、大磯などへ赴いた。特に大磯と日光には鍋島直大侯爵の別邸があり、イタリア生まれで雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられた鍋島伊都子(梨本宮守正王と婚約中)と頻繁に会い、親しく交友していた。 成婚後すぐに懐妊したため、宮中祭祀等には出られなかった。20世紀の最初の年である1901年(明治34年)4月29日、満16歳(数え年18歳)で、第一皇男子(第一子)の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)を出産した。しかし、このとき皇太子は葉山に滞在しており、4日後の5月3日になって義母の皇后美子が内孫と対面するのに合わせて帰京した。迪宮は生後70日の7月7日に、川村純義伯爵(海軍中将)に預けられた。 嘉仁親王は地方行啓や、御用邸への滞在で不在がちであった。節子妃は孤独の中で第二子を懐妊し、精神的にも深く落ち込んだ。この頃、下田歌子が神功皇后の故事にちなんで、節子妃を励ました。1902年(明治35年)6月25日、節子の満18歳(数え年19歳)の誕生日に、第二皇男子(第二子)淳宮雍仁親王(のちの秩父宮)を出産した。しかし、嘉仁親王は葉山に滞在して不在であり、7月22日に東宮仮御所に戻った。節子妃と淳宮の母子は、葉山で過ごしたのち、淳宮は兄迪宮と同様に川村伯爵に預けられた。 成婚当初、皇太子と同妃節子が揃って過ごす機会は少なかった。1903年(明治36年)5月26日から6月10日にかけ、第五回内国勧業博覧会への台覧のため、皇太子同妃は大阪へ行啓した。明治天皇と皇后が別々に行動したのに比し、皇太子同妃はそろって博覧会を台覧し、また嘉仁親王が馬車の上下車の際に同妃節子の手を取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻の良きモデル像となりつつあった。 帰京後の8月10日に第三子を懐妊するが、同月25日に流産した。翌年に再び懐妊し、1905年(明治38年)1月3日に第三皇男子(第三子)光宮宣仁親王(のちの高松宮)を出産した。前年に川村伯爵が死去しており、迪宮と淳宮は沼津御用邸に移っていた。3月22日、皇太子妃節子は光宮とともに沼津に行啓し、3人の子供たちとの時間を持つことができた。光宮はそのまま沼津に、迪宮と淳宮は青山の東宮仮御所に隣接する皇孫仮御所に移った。皇太子妃節子は、別離の悲しみを和歌に残している。 ベルツは、帰国前の1905年(明治38年)の様子として、親子が同居していると誤解しているものの、皇太子妃節子が成婚以前の快活な様子を取り戻したことや、家庭を持った皇太子にも良い影響があったと記している。週に数日とは言え、家族の時間を持てるようになったことは夫妻にとって喜ばしい一方、やがて皇太子妃節子は第一皇子の迪宮よりも、第二皇子の淳宮に対する愛情を深めていった。 1907年(明治40年)10月、皇太子妃節子が長年師事した下田歌子(学習院教授兼女学部長)が、同年1月より学習院院長となっていた乃木希典と対立して退職した。翌1908年(明治41年)4月からは迪宮が、翌年からは淳宮が学習院に入学した。 1909年(明治42年)5月29日、皇太子同妃は横須賀に行啓し、戦艦敷島に乗艦して海軍の演習を台覧した。軍事演習を台覧するのは皇太子妃節子にとって初めての経験であり、関連する和歌を33首も残すほど強い印象を受けた。同年には、御成婚祝の新居として建設された東宮御所(赤坂離宮)が完成するが、皇太子同妃の二人には広大すぎることや、子供たちとの距離が遠くなることから、皇太子同妃が暮らすことは無かった。 翌1910年(明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子は精神的に落ち込んだことを示唆する和歌を遺すようになる。体重が減少した皇太子妃節子を心配した皇后が浜離宮や葉山へ誘った。翌1911年(明治44年)1月27日には、姉の大谷籌子(西本願寺法主・大谷光瑞夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の2月7日から葉山御用邸に滞在し、3月27日に発熱、3月31日に腸チフスの診断を受けた。4月4日以降、回復傾向と伝えられ、7月1日に全快した。長期の静養の間、皇太子や迪宮が葉山を直接見舞うことは無く、また皇后は自ら賢所で祈願した米(賢所御供米)を贈った。
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皇太子妃時代
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1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚する。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった。「燕尾服の胸元には大勲位菊花大綬章、シルクハットを右手に晴ればれとしたお顔の皇太子殿下。ダイヤをちりばめた宝冠ティアラー、白いローブデコルテの上には金糸を縫い取りましたショール、美しくも気高いプリンセス美智子妃殿下。白地に花模様のお馬車のシートにむつまじく寄り添われたこの一組の明日の日本の象徴は、奉祝の人波の嵐のような歓呼ににこやかに応えておられます」とはNHKによる実況放送の一部である。またパレードの際には暴漢が馬車を襲撃して取り押さえられる事件が起こった。お印は夫妻の出会いの場だった軽井沢にちなんで白樺とした。 晴れがましい成婚パレード・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる。美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従入江相政に対し「(香淳皇后は)平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという。 一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる東久邇成子より自宅のホームパーティーに招待されるなど、好意的な旧皇族も存在した。 1960年(昭和35年)2月23日に第一子・第一男子浩宮徳仁親王が誕生した。出産後、昭和天皇、香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」と労いの言葉をかけられた。また、後の第126代天皇となる浩宮徳仁の命名は祖父・昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのようなときでも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国連邦政府より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待され、ドワイト・アイゼンハワー大統領夫妻と会談した。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。 1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に小山いと子が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁が平凡出版に申し入れ、連載は中止された。直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、胞状奇胎と診断され翌23日の午後に流産の処置手術が行われた。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連づけ、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった。7月8日から皇太子・皇孫浩宮とともに軽井沢で過ごしたあと、9月1日に帰京し、9月13日の第18回国民体育大会(山口国体)から、段階的に公務に復帰した。 1961年(昭和36年)夏頃、キリスト教に心酔していることに昭和天皇が激怒し、美智子妃が「絨毯の上にひれ伏して謝ったが、天皇のお怒りは容易に静まらなかった」と『文藝春秋』が報じた。 1965年(昭和40年)11月30日、第二子・第二男子礼宮文仁親王誕生。 1969年(昭和44年)4月18日、皇太子明仁親王との第三子・第一女子紀宮清子内親王誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。 これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した。 1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点をつけるか」との問いに対し、皇太子が「点数をつけることはできないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。 1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫の手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪韓は中止になった。手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。 晩年の昭和天皇一家の写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃勢津子とはともにマラソンを観戦した姿も目撃・報道された。また次男の文仁親王と長女の清子内親王は高松宮妃喜久子と関係が深く、孫のようにかわいがられていたといわれる。
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皇太子妃時代
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1924年(大正13年)1月7日、結婚に先立ち東宮職女官官制が制定され、女官は既婚で通勤も可能となり、典侍をはじめとする官職や源氏名も廃され、皇太子の主体的な意思により一夫一妻制を目指すこととなった。 1月12日、成婚の日が1月26日であると告示され、同日に告期の儀も執り行われた。 1月25日、成婚前夜には久邇宮邸で別れの宴が開かれ、良子女王のピアノ伴奏で、出席した家族や側近たちが心を込めて「蛍の光」の替え歌を合唱して良子女王を祝福した。成婚当日、朝3時に起床し、午前4時に庭園内の祖先の霊殿を参拝した。十二単に着替えた後、東宮侍従長入江為守子爵の迎えで、久邇宮邸を発ち、高樹町、青山南町、電車線沿いに表町通赤坂見附、永田町通霞ヶ関、桜田門、祝田町通を経て(地名は当時)、宮城(皇居)正門に至った 儀式は、史上初の神道様式の婚儀であった大正天皇・貞明皇后とほぼ同一だった。奉祝のイルミネーションや歓呼の中、久邇宮夫妻は赤坂の東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)の前で建物の明かりを見、立ち去った姿が報じられた。 裕仁親王は結婚を機に口ひげを生やし、また生涯にわたり妃を「良宮(ながみや)」の愛称で呼んだ。夫婦関係はこの頃より円満で、当時東宮侍従であった岡本愛祐の回想によれば、当時も手をつないで散歩をするなどしていた。同年8月から1か月余りの間、夫妻は福島県耶麻郡猪苗代町の高松宮翁島別邸(現天鏡閣)で、西欧式の新婚旅行として新婚の夏を過ごした。若い二人の姿は、文部省主導の生活改善運動を背景に、人々の憧れとなった。 1925年(大正14年)12月6日午後8時10分、第一子(第1女子)である照宮成子内親王を出産し、関東大震災以来の慶事として盛大な祝賀を受ける。照宮のために、3人の乳人が選ばれたが、夜間以外は使わず可能な限り自らの母乳で養育をした。乳人の回想によれば、夜間、皇子室で看護婦に連れられた照宮に授乳する際、金屏風の奥に良子女王も控えていたという。乳人が奉公した9か月のうち、良子女王と乳人が直接対面したのは3回だけであった。照宮出産に前後して、皇族の妊娠・出産に関する報道が増加し、以後良子女王は「母」のイメージで報じられるようになる。 翌1926年(大正15年)、葉山御用邸で療養中の義父・大正天皇の体調はいよいよ悪化し、12月13日に皇太子夫妻は葉山に参上するも、帰京できない重篤な状態が続いた。そして、12月25日午前1時25分、大正天皇は崩御した(47歳没)。 成婚時の良子女王(1924年撮影) 新婚の皇太子夫妻(1924年撮影) 皇太子一家(1925年撮影)
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皇太子妃時代
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1994年(平成6年)11月にサウジアラビア、オマーン、カタール、バーレーン、そして1995年(平成7年)1月にクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンにおける皇太子徳仁親王の公式訪問に同行した。 1996年(平成8年)5月、米国のニューズウィーク誌が「日本の雅子皇太子妃は、伝統の中で能力を発揮できない」という主旨の記事を掲載する。同年12月の誕生日記者会見には単独で応じ、以後2002年(平成14年)まで6回、単独会見を開いている。 1999年(平成11年)12月10日、朝日新聞が朝刊一面で皇太子妃雅子の懐妊の兆候をスクープ報道する。宮内庁および同東宮職は複数回に亘り、過熱報道の自粛を要請した。皇太子妃雅子は12月23日の天皇誕生日一般参賀には出席したが、その後12月30日に稽留流産の手術を受けたと発表された。古川清東宮大夫・川口政行東宮侍医長・医師の岡井崇が記者会見を開き、懐妊が早期から大々的に報道され雅子妃に心労を与えたことを批判する一方、海外訪問との因果関係については否定した。また、過度の報道に対して徳仁親王は遺憾の意を表明した。2000年(平成12年)2月から、公務に復帰する。 2001年(平成13年)4月16日に懐妊の可能性が発表された。同年5月15日に懐妊が正式に発表された。同年12月1日に第1皇女子・敬宮愛子内親王が誕生。世継ぎ問題のプレッシャーがかかる中、結婚から8年余りでの第一子誕生だった。 2002年(平成14年)12月、皇太子徳仁親王とともに夫妻で、ニュージーランドとオーストラリア両国を公式に親善訪問した。 2003年(平成15年)12月3日に帯状疱疹を発症し、公務を休み療養した。 2004年(平成16年)5月、夫の徳仁親王が訪欧を前にした記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言。海外育ちで国際派と見られていた皇太子妃雅子と、伝統と慣習に厳格な宮内庁との間で不和があることをうかがわせた。この発言は「人格否定発言」と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。同年6月、適応障害の医師の診断を受け、療養に入る。 2006年(平成18年)8月17日から31日まで、オランダ王室のベアトリクス女王(当時)の好意で、療養のためオランダ王国へ夫の皇太子徳仁親王と長女の敬宮愛子内親王(当時4歳)と共に一家で旅行し海外静養した。オランダをはじめベルギーやルクセンブルクの王族と交流した。 2010年(平成22年)3月以降、学習院初等科で学校生活内で問題を抱えた長女の敬宮愛子内親王を母親として気遣って登下校に付き添うようになり、外出の機会が一時期増加した。 2013年(平成25年)4月28日、皇太子同妃はオランダ王国政府からの招待を受け同国の公式訪問が実現し、30日に同国首都アムステルダムにある新教会で国王ウィレム=アレクサンダーの即位式に出席した 。海外公式訪問は、夫妻で2002年(平成14年)にニュージーランドとオーストラリアを訪問して以来約11年ぶり。 同年10月12日、全国障害者スポーツ大会の開会式に10年ぶりに出席した。 2014年(平成26年)7月15日、武蔵陵墓地に12年ぶりに参拝、7月29日に伊勢神宮に20年ぶりに参拝した。8月3日には全国高等学校総合体育大会に12年ぶりに出席、皇太子一家で競技を観戦した。同年10月29日オランダ国王夫妻歓迎行事に出席(5年ぶり)。宮中晩餐会には11年ぶりに出席した。 2015年(平成27年)7月2日 - 6日、トンガを公式訪問し、4日に国王トゥポウ6世の戴冠式に参列した。続く昼食会では、ウルカララ王太子同妃夫妻らトンガ王族と交流を持った。5日には在留邦人らとの懇談の場に参加した。同年11月12日、赤坂御苑で開かれた秋の園遊会に出席した。(12年ぶり)。 2017年(平成29年)6月16日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法公布、同年12月1日開催の皇室会議及び12月8日開催の第4次安倍内閣の定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、夫の皇太子徳仁親王(当時)が2019年(令和元年)5月1日に皇位を継承する日程が確定した。
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皇太子妃時代
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(皇太子徳仁親王)「『コウノトリのご機嫌に任せて』とあの時申しました気持ちは今も変わっておりません。ただ,あまり周りで波風が立ちますと,コウノトリのご機嫌を損ねるのではないかというふうに思います。今回,風邪をひいたことが思わぬ方向に発展しまして大きな騒ぎになっておりますので,私としては正直言ってびっくりしております。」 (同妃雅子:当時、以下同)「私も殿下のお考えと同じでございます。一言付け加えるといたしましたら,依然としてオーケストラは考えておりませんということでございましょうか。」1994年(平成6年)2月9日、婚姻に関する皇室会議終了後の記者会見から1年を経たことにあたっての皇太子徳仁親王と同妃雅子の記者会見にて。 「多分、今のいろいろなことが多様化してきている日本の社会においては、女性の在り方とか、女性の役割といったものについても様々な考え方があると思います。そのような中で、伝統的な皇太子妃の在り方というものと、それから自分らしさというものを、どのように調和なり、バランスの良い接点というものを見いだしていくかということについては、その時々で苦心もいたしますけれども、私がとても現代的なのかもしくは保守的なのかということは、2つに1つということなどではなくて、(中略)古いものでも良いものは大切にしながら、そして新しい時代の要請というものも考慮に入れていくことが大切なのではないかというふうに考えています。」1996年(平成8年)12月6日、皇太子妃雅子の33歳の誕生日に際しての単独での記者会見にて。 「いろいろなことが変化する時代の中にあって、大変難しい境遇に置かれる人々に対しても心を寄せていきたいというふうに思っています。(中略)できるだけ多くの人がその人その人の幸せなり、可能性といったものを見いだしていくことのできる社会であることを、常に願っています。」1997年(平成9年)12月5日、皇太子妃雅子の34歳の誕生日に際しての単独での記者会見にて。 「夫婦喧嘩につきましては、ご期待にそえないかも知れませんが、仲直りが必要なような喧嘩には余りなりません。ただ、相手に不快な思いをさせてしまったかしらと思うときには、素直に謝るということが大切なのかもしれないと思っております。それから、今、犬がおりますけれども、この、犬がいるというのも夫婦の仲にとって、とても良いように思います。よく『夫婦喧嘩は犬も食わぬ』と申しますけれども、喧嘩の種は割とよく拾って食べてくれるような気がいたします。」1998年(平成10年)12月4日、皇太子妃雅子の35歳の誕生日に際しての単独での記者会見にて。 「無事に出産できましたときには、ほっといたしますと同時に、初めて私の胸元に連れてこられる生まれたての子供の姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました。今でも、その光景は、はっきりと目に焼き付いております。生命の誕生、初めておなかの中に小さな生命が宿って、育まれて、そして時が満ちると持てるだけの力を持って誕生してくる、そして、外の世界での営みを始めるということは、なんて神秘的で素晴らしいことなのかということを実感いたしました。」2002年(平成14年)4月2日、長女の愛子内親王誕生につき皇太子徳仁親王と同妃雅子の記者会見にて。 「正直を申しまして私にとりまして、結婚以前の生活では私の育ってくる過程、そしてまた結婚前の生活の上でも、外国に参りますことが、頻繁にございまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます。」2002年(平成14年)12月5日、皇太子徳仁親王と同妃雅子のニュージーランド及びオーストラリア両国訪問(日程:同年12月11日~12月19日)に際しての記者会見にて。 「平成の御代最後となる年の暮れが近づきます中、私にとりましては、1993年(平成5年)に皇室に上がりましてから26回目となる今年の誕生日を、平成最後の誕生日として、深い感慨とともに、ある種の寂しさを感じながら迎えようとしております。」 「(中略)この先の日々に思いを馳せますと、私がどれ程のお役に立てますのか心許ない気持ちも致しますが、これまで両陛下(現・上皇上皇后、以下同)のなさりようをお側で拝見させていただくことができました幸せを心の糧としながら、これからも両陛下のお導きを仰ぎつつ、少しでも皇太子殿下(現・天皇、以下同)のお力になれますよう、そして国民の幸せのために力を尽くしていくことができますよう、研鑽を積みながら努めてまいりたいと思っております。」 「(中略)私たち一人一人がお互いを思いやり、広い心を持って違いを乗り越え、力を合わせることによって、社会的に弱い立場にある人々を含め、全ての人が安心して暮らすことのできる社会を実現していくことや、このかけがえのない地球を健全な形で将来の世代に引き継いでいくために、私たちが何をすべきなのか、それぞれが真剣に考えていくことが必要な時代になっているのではないかと感じます。」 「(中略)また、この一年も、皇太子殿下を始め、色々な方のお力添えをいただきながら、体調の快復に努め、少しずつ果たせる務めが増えてきましたことをうれしく思っております。(中略)今後とも、引き続き体調の快復に努めながら、できる限りの公務に力を尽くすことができますよう、努力を続けてまいりたいと思っております。国民の皆様から日頃よりお寄せいただいている温かいお気持ちに、この機会に重ねてお礼を申し上げます。」2018年(平成30年)12月9日、自身の皇太子妃として迎える最後の誕生日(55歳)に際しての感想。
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