皇太子妃時代とは? わかりやすく解説

皇太子妃時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:20 UTC 版)

貞明皇后」の記事における「皇太子妃時代」の解説

結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王当時)と節子1900年撮影1900年明治33年2月11日、満15歳数え年17歳)で、5歳年上皇太子嘉仁親王婚約同年5月10日宮中賢所に於いて賢所大前の儀執り行った。これは、前4月制定され皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった節子は、和装洋装を計5回着替え明治天皇皇后美子への拝礼を含む多く行事こなした婚儀従来公家様式代わる新たな様式であり、婚礼儀式や行事は、当時最新マスメディアである新聞によって詳報され一般市民関心集めた。そこで、翌1901年明治34年礼法講習会日比谷大神宮二人婚礼模して神前結婚式創始し以後ホテル結婚式披露宴とともに日本社会広く普及していった。 結婚式の日の様子として、ドイツ帝国からの”お雇い外国人”であるエルヴィン・フォン・ベルツは「東宮お元気な様子、妃は大変お美しい」と評した一方節子恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨評価新聞寄せた同年5月23日から6月7日にかけて皇太子同妃は、伊勢の神宮神武天皇陵への奉告含め東海近畿地方旅行した還御した嘉仁親王皇太子妃節子は、それぞれ別に国学漢学フランス語等の教育受けた成婚当時教育係老女官・万里小路幸子らに宮中における礼儀作法厳しく躾けられ困惑したという。後年には万里小路指導自分素養大きく役立った感謝していた。当時は、皇太子後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王単独代々木練兵場葉山大磯などへ赴いた。特に大磯日光には鍋島直大侯爵別邸があり、イタリア生まれ雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられ鍋島伊都子梨本宮守正王婚約中)と頻繁に会い親しく交友していた。 成婚後すぐに懐妊したため、宮中祭祀等には出られなかった。20世紀最初の年である1901年明治34年4月29日、満16歳数え年18歳)で、第一男子第一子)の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)を出産した。しかし、このとき皇太子葉山滞在しており、4日後の5月3日になって義母皇后美子内孫対面するのに合わせて帰京した迪宮生後70日の7月7日に、川村純義伯爵海軍中将)に預けられた。 嘉仁親王地方行啓や、御用邸への滞在不在がちであった節子妃は孤独の中で第二子懐妊し精神的に深く落ち込んだこの頃下田歌子神功皇后故事にちなんで、節子妃を励ました1902年明治35年6月25日節子の満18歳数え年19歳)の誕生日に、第二男子第二子淳宮雍仁親王(のちの秩父宮)を出産した。しかし、嘉仁親王葉山滞在して不在であり、7月22日東宮仮御所戻った節子妃と淳宮母子は、葉山過ごしたのち、淳宮は兄迪宮同様に川村伯爵預けられた。 成婚当初皇太子と同妃節子揃って過ごす機会少なかった1903年明治36年5月26日から6月10日にかけ、第五回内国勧業博覧会への台覧のため、皇太子同妃は大阪行啓した。明治天皇皇后別々に行動したのに比し皇太子同妃はそろって博覧会台覧し、また嘉仁親王馬車の上下車の際に同妃節子の手取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻良きモデル像となりつつあった。 帰京後8月10日第三子を懐妊するが、同月25日流産した翌年に再び懐妊し1905年明治38年1月3日第三男子第三子)光宮宣仁親王(のちの高松宮)を出産した前年川村伯爵死去しており、迪宮淳宮沼津御用邸移っていた。3月22日皇太子妃節子光宮とともに沼津行啓し、3人の子供たちとの時間を持つことができた。光宮そのまま沼津に、迪宮淳宮青山東宮仮御所隣接する皇孫仮御所移った皇太子妃節子は、別離悲しみ和歌残している。 ベルツは、帰国前の1905年明治38年)の様子として、親子同居していると誤解しているものの、皇太子妃節子成婚以前快活な様子取り戻したことや、家庭持った皇太子にも良い影響があったと記している。週に数日とは言え家族時間持てるようになったことは夫妻にとって喜ばしい一方、やがて皇太子妃節子第一皇子迪宮よりも、第二皇子淳宮対す愛情深めていった。 1907年明治40年10月皇太子妃節子長年師事した下田歌子学習院教授女学部長)が、同年1月より学習院院長となっていた乃木希典対立して退職した。翌1908年明治41年4月からは迪宮が、翌年からは淳宮学習院入学した1909年明治42年5月29日皇太子同妃は横須賀行啓し、戦艦敷島乗艦して海軍演習台覧した。軍事演習台覧するのは皇太子妃節子にとって初めての経験であり、関連する和歌33首も残すほど強い印象受けた同年には、御成婚祝の新居として建設され東宮御所赤坂離宮)が完成するが、皇太子同妃の二人には広大すぎることや、子供たちとの距離が遠くなることから、皇太子同妃が暮らすことは無かった。 翌1910年明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子精神的に落ち込んだことを示唆する和歌遺すうになる体重減少した皇太子妃節子を心配した皇后浜離宮葉山誘った。翌1911年明治44年1月27日には、姉の大谷籌子西本願寺法主大谷光瑞夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の2月7日から葉山御用邸滞在し3月27日発熱3月31日腸チフス診断受けた4月4日以降回復傾向伝えられ7月1日全快した長期静養の間、皇太子迪宮葉山直接見舞うことは無く、また皇后は自ら賢所祈願した米(賢所御供米)を贈った

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皇太子妃時代

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上皇后美智子」の記事における「皇太子妃時代」の解説

1959年昭和34年4月10日皇太子明仁親王結婚する同日成婚パレードには、沿道53万人もの市民集まった。「燕尾服胸元には大勲位菊花大綬章シルクハット右手晴ればれとしたお顔の皇太子殿下ダイヤちりばめた宝冠ティアラー、白いローブデコルテの上には金糸縫い取りましたショール美しくも気高いプリンセス美智子妃殿下白地花模様お馬車のシートむつまじく寄り添われたこの一組明日日本象徴は、奉祝人波の嵐のような歓呼にこやかに応えておられます」とはNHKによる実況放送一部である。またパレードの際には暴漢馬車襲撃し取り押さえられる事件起こったお印夫妻出会いの場だった軽井沢にちなん白樺とした。 晴れがましい成婚パレード民間での祝福ムードとは対照的に貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川子な元皇族令嬢がいたことなどの理由から、一部皇族女官受け入れられず、元皇族元華族の婦人らからもさまざまな非難受けたとされる美智子妃1969年に、昭和天皇侍従入江相政対し「(香淳皇后は)平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという。 一方、もと内親王であり、美智子妃義理の姉にあたる東久邇成子より自宅ホームパーティー招待されるなど、好意的な旧皇族存在した1960年昭和35年2月23日第一子第一男子浩宮徳仁親王誕生した出産後昭和天皇香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」と労いの言葉かけられた。また、後の第126代天皇となる浩宮徳仁命名祖父昭和天皇が行った。親王存在美智子妃の心の支えとなった美智子妃当時側近である黒木従達東宮侍従に「どのようなときでも皇太子としての義務最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉語っている。同年9月22日 - 10月7日幕末より数えて日米修好百周年記念しアメリカ合衆国連邦政府より招待され訪米ホワイトハウスにも招待されドワイト・アイゼンハワー大統領夫妻会談した。この折、浩宮出生後7か月となっていたが伴わず側近に躾の方針示したメモ通称ナルちゃん憲法」を与えて養育委ねる1963年昭和38年)に前後し週刊誌中心に虚偽・報道協定違反報道相次いだ1963年3月4日第二子懐妊報じられたが、同年3月10日香淳皇后還暦祝い欠席し、同11日小山いと子美智子妃生い立ち書いた雑誌『平凡』連載小説美智子さま』の連載単行本発行中止宮内庁平凡出版申し入れ連載中止された。直後3月22日宮内庁病院緊急入院胞状奇胎診断され23日午後に流産処置手術が行われた。全国紙各紙美智子妃不調週刊誌報道小説問題関連づけ、『平凡』ほか雑誌バッシングしたが、胞状奇胎ストレスで起こることはなく、小説内容東宮御所筋から得ていたと小山証言しており、対立する宮内庁側から圧力とされる。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後心身疲労から体調回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月ひとりで静養する事態となった7月8日から皇太子皇孫浩宮とともに軽井沢過ごしたあと、9月1日帰京し9月13日第18回国民体育大会山口国体)から、段階的に公務復帰した1961年昭和36年)夏頃、キリスト教心酔していることに昭和天皇激怒し美智子妃が「絨毯の上にひれ伏して謝ったが、天皇のお怒り容易に静まらなかった」と『文藝春秋』が報じた1965年昭和40年11月30日第二子第二男子礼宮文仁親王誕生1969年昭和44年4月18日皇太子明仁親王との第三子・第一女子紀宮清子内親王誕生苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮存在大きな心の支えとなったとされる1977年昭和52年)から10年間は、毎年2人陵墓史跡訪問を含む小旅行行なっていた。 これら子女出産にあたり皇室慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度傅育官制度を廃止した1984年昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年会見で「夫婦としてお互いに何点をつけるか」との問い対し皇太子が「点数をつけることはできない努力ということで」と答えたのを聞いて美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え同席していた記者たちから感嘆の声あがった1986年昭和61年3月子宮筋腫の手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米翌年延期訪韓中止になった手術の際も夫・皇太子公務妨げとなることを好まず中止判断極限まで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。 晩年昭和天皇一家写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真複数公表されている。秩父宮妃勢津子とはともにマラソン観戦した姿も目撃報道された。また次男文仁親王長女清子内親王高松宮妃喜久子と関係が深く、孫のようにかわいがられていたといわれる

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皇太子妃時代

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香淳皇后」の記事における「皇太子妃時代」の解説

1924年大正13年1月7日結婚先立ち東宮職女官官制制定され女官既婚通勤も可能となり、典侍はじめとする官職源氏名廃され皇太子主体的な意思により一夫一妻制目指すこととなった1月12日成婚の日が1月26日であると告示され同日告期の儀執り行われた。 1月25日成婚前夜には久邇宮邸で別れの宴が開かれ良子女王ピアノ伴奏で、出席した家族側近たちが心を込めて蛍の光」の替え歌合唱し良子女王祝福した成婚当日、朝3時起床し午前4時庭園内祖先霊殿参拝した十二単着替えた後、東宮侍従長入江為守子爵迎えで、久邇宮邸を発ち高樹町青山南町、電車線沿いに表町赤坂見附永田町霞ヶ関桜田門祝田町通を経て地名当時)、宮城皇居正門至った 儀式は、史上初の神道様式婚儀であった大正天皇貞明皇后とほぼ同一だった。奉祝イルミネーション歓呼の中、久邇宮夫妻赤坂東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)の前で建物明かりを見、立ち去った姿が報じられた。 裕仁親王結婚機に口ひげ生やし、また生涯にわたり妃を「良宮(ながみや)」の愛称呼んだ夫婦関係この頃より円満で、当時東宮侍従であった岡本愛祐回想によれば当時手をつないで散歩をするなどしていた。同年8月から1か月余りの間、夫妻福島県耶麻郡猪苗代町高松宮翁島別邸(現天鏡閣)で、西欧式の新婚旅行として新婚の夏を過ごした。若い二人の姿は、文部省主導生活改善運動背景に、人々憧れとなった1925年大正14年12月6日午後8時10分、第一子(第1女子)である照宮成子内親王出産し関東大震災以来慶事として盛大な祝賀を受ける。照宮のために、3人の乳人選ばれたが、夜間以外は使わず可能な限り自らの母乳養育をした。乳人回想によれば夜間皇子室で看護婦に連れられた照宮授乳する際、金屏風の奥に良子女王控えていたという。乳人奉公した9か月のうち、良子女王乳人直接対面したのは3回だけであった照宮出産前後して皇族妊娠・出産に関する報道増加し以後良子女王「母」イメージ報じられるうになる。 翌1926年大正15年)、葉山御用邸療養中義父大正天皇体調はいよいよ悪化し12月13日皇太子夫妻葉山参上するも、帰京できない重篤な状態が続いた。そして、12月25日午前1時25分、大正天皇崩御した(47歳没)。 成婚時の良子女王1924年撮影新婚皇太子夫妻1924年撮影皇太子一家1925年撮影

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皇太子妃時代

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皇后雅子」の記事における「皇太子妃時代」の解説

1994年平成6年11月サウジアラビアオマーンカタールバーレーン、そして1995年平成7年1月クウェートアラブ首長国連邦ヨルダンにおける皇太子徳仁親王公式訪問同行した1996年平成8年5月米国ニューズウィーク誌が「日本雅子皇太子妃は、伝統の中で能力発揮できない」という主旨記事掲載する同年12月誕生日記者会見には単独応じ以後2002年平成14年)まで6回、単独会見開いている。 1999年平成11年12月10日朝日新聞朝刊一面皇太子妃雅子懐妊兆候スクープ報道する宮内庁および同東宮職複数回に亘り、過熱報道自粛要請した皇太子妃雅子12月23日天皇誕生日一般参賀には出席したが、その後12月30日稽留流産の手術を受けた発表された。古川清東宮大夫川口政行東宮侍医長医師岡井崇記者会見開き懐妊早期から大々的報道され雅子妃心労与えたことを批判する一方海外訪問との因果関係については否定したまた、過度報道に対して徳仁親王遺憾の意表明した2000年平成12年2月から、公務復帰する2001年平成13年4月16日懐妊可能性発表された。同年5月15日懐妊正式に発表された。同年12月1日に第1皇女子敬宮愛子内親王誕生世継ぎ問題プレッシャーがかかる中、結婚から8年余りでの第一子誕生だった。 2002年平成14年12月皇太子徳仁親王とともに夫妻で、ニュージーランドオーストラリア両国を公式に親善訪問した。 2003年平成15年12月3日帯状疱疹発症し公務休み療養した2004年平成16年5月、夫の徳仁親王訪欧前にした記者会見で「雅子キャリアや、そのこと基づいた雅子人格否定するような動きがあったことも事実です」と発言海外育ち国際派見られていた皇太子妃雅子と、伝統と慣習厳格な宮内庁との間で不和があることをうかがわせた。この発言は「人格否定発言」と呼ばれ大きな反響呼んだ同年6月適応障害医師診断を受け、療養に入る。 2006年平成18年8月17日から31日まで、オランダ王室ベアトリクス女王当時)の好意で、療養のためオランダ王国へ夫の皇太子徳仁親王長女敬宮愛子内親王当時4歳と共に一家旅行し海外静養した。オランダをはじめベルギールクセンブルク王族交流した2010年平成22年3月以降学習院初等科学校生活内で問題抱えた長女敬宮愛子内親王母親として気遣って登下校付き添うようになり、外出機会一時期増加した2013年平成25年4月28日皇太子同妃はオランダ王国政府からの招待を受け同国公式訪問実現し30日同国首都アムステルダムにある新教会国王ウィレム=アレクサンダー即位式出席した海外公式訪問は、夫妻2002年平成14年)にニュージーランドオーストラリア訪問して以来11年ぶり。 同年10月12日全国障害者スポーツ大会開会式10年ぶりに出席した2014年平成26年7月15日武蔵陵墓地12年ぶりに参拝7月29日伊勢神宮20年ぶりに参拝した8月3日には全国高等学校総合体育大会12年ぶりに出席皇太子一家競技観戦した同年10月29日オランダ国王夫妻歓迎行事出席(5年ぶり)。宮中晩餐会には11年ぶりに出席した2015年平成27年7月2日 - 6日トンガ公式訪問し、4日国王トゥポウ6世戴冠式参列した。続く昼食会では、ウルカララ王太子同妃夫妻トンガ王族交流持った5日には在留邦人らとの懇談の場に参加した同年11月12日赤坂御苑開かれた秋の園遊会出席した。(12年ぶり)。 2017年平成29年6月16日天皇の退位等に関する皇室典範特例法公布同年12月1日開催皇室会議及び12月8日開催第4次安倍内閣定例閣議同法施行期日規定する政令閣議決定され、夫の皇太子徳仁親王当時)が2019年令和元年5月1日皇位継承する日程確定した

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皇太子妃時代

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皇后雅子」の記事における「皇太子妃時代」の解説

皇太子徳仁親王)「『コウノトリご機嫌任せて』とあの時申しました気持ちは今も変わっておりません。ただ,あまり周り波風立ちますと,コウノトリご機嫌損ねるではないかというふうに思います今回風邪をひいたことが思わぬ方向発展しまして大きな騒ぎになっておりますので,私としては正直言ってびっくりしております。」 (同妃雅子当時、以下同)「私も殿下のお考えと同じでございます一言付け加えるといたしましたら,依然としてオーケストラ考えておりませんということでございましょうか。」1994年平成6年2月9日婚姻に関する皇室会議終了後記者会見から1年経たことにあたって皇太子徳仁親王と同妃雅子記者会見にて。 「多分、今のいろいろなことが多様化してきてい日本社会においては女性在り方とか、女性の役割といったものについても様々な考え方があると思いますそのような中で、伝統的な皇太子妃在り方というものと、それから自分らしさというものを、どのように調和なり、バランス良い接点というものを見いだしていくかということについては、その時々で苦心いたしますけれども、私がとても現代的なのかもしくは保守的なのかということは2つ1つということなどではなくて、(中略)古いものでも良いものは大切にしながら、そして新し時代要請というものも考慮入れていくことが大切なではないかというふうに考えてます。1996年平成8年12月6日皇太子妃雅子33歳誕生日に際して単独での記者会見にて。 「いろいろなことが変化する時代中にあって、大変難し境遇置かれる人々に対して心を寄せていきたいというふうに思ってます。中略できるだけ多くの人がその人その人幸せなり、可能性といったものを見いだしていくことのできる社会であることを、常に願ってます。1997年平成9年12月5日皇太子妃雅子34歳誕生日に際して単独での記者会見にて。 「夫婦喧嘩つきましては、ご期待そえないかも知れませんが、仲直り必要なような喧嘩には余りなりません。ただ、相手不快な思いをさせてしまったかしらと思うときには素直に謝るということ大切なのかもしれない思っております。それから、今、おりますけれども、この、がいるというのも夫婦の仲にとって、とても良いように思います。よく『夫婦喧嘩犬も食わぬと申しますけれども、喧嘩の種は割とよく拾って食べてくれるような気がいたします。」1998年平成10年12月4日皇太子妃雅子35歳誕生日に際して単独での記者会見にて。 「無事に出産できましたときには、ほっといたします同時に初めて私の胸元に連れてこられる生まれたての子供の姿を見て本当に生まれてきてありがとうという気持ち一杯なりました今でも、その光景は、はっきりと目に焼き付いております生命の誕生初めておなかの中に小さな生命宿って育まれて、そして時が満ちる持てるだけの力を持って誕生してくる、そして、外の世界での営み始めということは、なんて神秘的素晴らしいことなのかということ実感いたしました。」2002年平成14年4月2日長女愛子内親王誕生につき皇太子徳仁親王と同妃雅子記者会見にて。 「正直を申しまして私にとりまして、結婚以前の生活では私の育ってくる過程、そしてまた結婚前の生活の上でも、外国参りますことが、頻繁にございまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、6年間の間外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況適応することになかなか大きな努力要ったということございます。」2002年平成14年12月5日皇太子徳仁親王と同妃雅子ニュージーランド及びオーストラリア両国訪問日程同年12月11日12月19日に際して記者会見にて。 「平成御代最後となる年の暮れ近づきます中、私にとりましては、1993年平成5年)に皇室上がりましてから26回目となる今年誕生日を、平成最後誕生日として、深い感慨とともにある種寂しさ感じながら迎えようとしております。」 「(中略この先日々思いを馳せますと、私がどれ程お役立てますのか心許ない気持ち致しますが、これまで陛下(現・上皇上皇后、以下同)のなさりようをお側拝見させていただくことができました幸せ心の糧しながらこれからも両陛下お導き仰ぎつつ、少しでも皇太子殿下(現・天皇、以下同)のお力なれますよう、そして国民幸せのために力を尽くしていくことができますよう、研鑽積みながら努めていりたい思っております。」 「(中略私たち一人一人お互い思いやり広い心持って違い乗り越え力を合わせることによって、社会的に弱い立場にある人々含め全ての人が安心して暮らすことのできる社会実現していくことや、このかけがえのない地球健全な形で将来世代引き継いでいくために、私たち何をすべきなのか、それぞれが真剣に考えていくことが必要な時になっているではないか感じます。」 「(中略また、この一年も、皇太子殿下始め色々な方のお力添えいただきながら、体調快復努め少しずつ果たせ務め増えてきましたことをうれしく思っております。(中略今後とも引き続き体調快復努めながら、できる限り公務力を尽くすことができますよう、努力続けていりたい思っております国民皆様から日頃より寄せいただいている温かいお気持ちに、この機会重ねてお礼申し上げます。」2018年平成30年12月9日自身皇太子妃として迎え最後誕生日55歳に際して感想

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