逸話・人物とは? わかりやすく解説

逸話・人物

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辛彦之」の記事における「逸話・人物」の解説

隋初の州刺史は珍しい物産献上するものが多かったが、ひとり彦之のみは供祭の物を献上した文帝朝臣の前で彦之のことを賞賛した。 彦之は仏教信仰すること篤く潞州城内仏寺2カ所を建立し、ともに15層あったと伝えられる591年潞州張元突然死し、数日後蘇生する事件があった。張元次のような臨死体験語った張元天上遊んできわめて美麗な堂が新築されるの見た張元新築のわけを訊ねると、天上の人は潞州刺史辛彦之功徳があるので、この堂を造って待っているのだと言った。彦之はこの話を聞くと、喜ばなかった。彦之はこの年のうちに死去した

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王坦之」の記事における「逸話・人物」の解説

王坦之弱冠にして郗超とともに名を知られるようになり、「盛徳絶倫なるは郗嘉賓、江東独歩たるは王文度」と言われ併称された。 尚書僕射の江虨が官吏選抜の任をつとめたとき、王坦之尚書郎候補者擬せられた。坦之がこのことを聞くと、「南渡以来尚書郎は2流の人間第二人)が任用されることとなっている。どうして(私のような人間を)尚書郎充てることができようか」と言った。江虨はそこで取りやめた。 王坦之刑名学尊び、「廃荘論」を著して当時老荘思想にもとづいた議論放蕩なものとみなして批判した。 孔厳が「通論」を著すと、王坦之手紙出してこれを賛美した王坦之は僧の支遁と仲が悪く支遁のことを詭弁家と決めつけ、「沙門高士たるを得ず」という文章著した王坦之は僧の竺法潜とつき合い深く、ともに幽明報応のことを論じ合った

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李鳳」の記事における「逸話・人物」の解説

李鳳は、狩猟遊び喜び属官侮った奴隷虎皮かぶせて脅かし、その参軍の陸英俊恐怖のあまり間もなく死ぬと、呵々大笑して楽しんだという。

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羊烈」の記事における「逸話・人物」の解説

羊烈読書好み、名理についてよ語って玄学で名を知られた。 羊烈の家は閨閥知られ一門の女は再婚しないことを誇りとした。北魏太和年間、羊家は兗州尼寺作り、夫を失い子のいない独居女性そろって出家させて尼とした。 羊烈北斉天統年間尚書の畢義兗州大中正の位をめぐって争った。畢義門閥誇り、「わたしは代々兗州刺史つとめた家柄だ。卿の家は代々わが家の故吏ではないかと言い放った羊烈は、「卿の家は畢軌殺され帰ってから人物がいない。最近は刺史になったといって、みなろくなやつではなく、言うに足りないわが家人物は、漢の河南尹や晋の太傅のように、名声徳行学問がそろい、後世に美を伝え人物ばかりだ。なおかつ男は清廉で女は貞淑であり、賞賛するに足り人物がほかより多いといわねばならないと言い返した

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鹿悆」の記事における「逸話・人物」の解説

かつて鹿悆徐州訪れたとき、馬が病気かかったため、船に乗せて大梁までやってきた。夜眠っていると、従者が岸に上がって4束を盗んでその馬に食わせた。船が数里行って鹿悆目覚め出所問い質すと、従者盗んだことを告白した鹿悆激怒し、船を停めて岸に上がり取ったところに赴き、固織り絹織物3丈を束の下に置いて返した鹿悆五言詩賦した。「嶧山万、雕鏤作琵琶、由此材高遠、弦響藹中華」と。また「援琴起何調、幽白雪絲管未成使弦響絶」と。 梁州には兵糧和糴があり、和糴横領され放題であったが、鹿悆はひとり取ることはなかった。元子直が取るよう命じたが、鹿悆はその命に従わなかった。 豫章王蕭綜北魏帰順する意志示したため、鹿悆徐州派遣された。蕭綜の軍主の程兵潤に止められ詰問されると、鹿悆は臨淮王元彧の使者交易望んでいると主張した蕭綜鹿悆捕らえられたと聞くと、元略謀反疑惑があり、その調査のために北魏派遣した人物だと成景儁らに説明した蕭綜腹心話を派遣して鹿悆迎えて密談した

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ジョン・ボーマン」の記事における「逸話・人物」の解説

太平洋戦争後の戦災孤児の姿に心を痛めた母国帰国する時、子供たちと「また日本に来る」と約束をする。日本へ渡る時、夫婦迷いはなく、大垣市では知的障害施設がほとんどなかったことから、「あゆみの家」を創立。 妻ベルニダが「貧し子供時代過ごした夫は、弱い立場の人たちをいつも気に掛けていた」と振り返る。 夫ボーマン支えるため、ベルニダは教会仲間と共にリサイクルショップ「あゆみ」を経営し仲間と共にボランティアとして毎月売り上げからあゆみの家寄付をした。

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王懿」の記事における「逸話・人物」の解説

王懿若くして陰陽通じ声律解した王懿慕容垂戦って敗れると、重傷負って逃走し家族ともはぐれた。道は大沢にかかり、前進できなくなって困窮果て林中倒れ伏した。そこに忽然と青衣童児が牛に乗って現れ王懿見て食べていないのか」と訊ねると、王懿飢え告白した童児去りほどなくまたやってくると、王懿に食を与えた王懿食べ終わると、元気を回復して再び出発した。行くところ河の瀑布突き当たり渡りかたが分からなかった。そこに1匹の白い現れ、天を仰いでひと吠えして吠え終わると、王懿の衣を銜えて河を渡った王懿がこれについて行くと、無事渡ることができ、兄の王叡とも再会できたという。 王懿翟遼のもとを逃れて泰山に向かうと、翟遼追っ手騎兵かけられた。夜間進んだが、忽然と炬火現れ先導し王懿はこれに従って進み100里ばかり行くと、逃れることができたという。 劉裕らが桓玄討って建康平定すると、王懿王叡の子王方回を抱いて劉裕面会し劉裕馬上で方回を抱いて王懿とともに泣いた王叡には給事中の位が追贈され、安複県侯に追封された。 430年北伐ひとたび魏軍を破ると、宋軍は戦勝湧いたが、王懿はひとり憂色沈み、「胡虜仁義足らないといえど凶暴狡猾に余りあり、いま戈をおさめて北に帰っても、戦力集結し黄河の凍る冬となれば、どうして三軍憂いとならないことがあろうか」といった。王懿懸念当たってこの冬に北魏反攻受けて宋軍は大敗喫した。 到彦之は虎牢洛陽守りきれない聞くと、舟を焼いて徒歩逃げようとした。王懿は「洛陽がすでに陥落し虎牢守りきれないというのは、勢いのしかるところです。いま賊は我を去ること千里にあり、滑台にはなお強兵がありますが、もし即座に舟を捨てて逃走すれば、兵士散り散りになってしまいます済水入って馬耳谷口行けば、もっとしかるべきところがありましょうと言った王懿は軍を済南郡歴城に立ち寄らせて撤退させ、舟を焼き武具遺棄すると、彭城帰還した王懿3度徐州刺史つとめて威信があり、彭城仏寺を建て、白狼童子の像を作って塔中おさめた。これらの像はかつて河北遭遇した者たちをモデルとしていた。

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唐倹」の記事における「逸話・人物」の解説

李淵太原起兵する前、唐倹は「公は朝廷一角占め、姓は隋の楊氏に取って代わる予言され李氏であり、天下長らく公を待ち望んでおります。もし官庫開いて、南に豪傑集め、北に戎狄招き、東に燕・趙の地を収め長駆して黄河渡り、秦・雍の地に拠れば、殷の湯王や周の武王のように王業立てることができましょう」と李淵言った太宗に従って洛陽の苑で狩猟をしたときのこと。イノシシ群れから飛び出してきて、太宗四発の矢を射て、四匹のイノシシ倒した一匹イノシシ躍り上がって馬の鐙に達したので、唐倹は馬を捨てて逃げた太宗は剣を抜いてイノシシを斬り、「天策長史はどうしてこいつをそんなに恐れるのか?」と笑った唐倹は「漢の高祖馬上天下得て馬上天下治めなかったといいます陛下神武をもって四方定められましたのに、どうしてまた獣一匹のことで喜ばれますのか」と答えた

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謝瀹」の記事における「逸話・人物」の解説

謝瀹7歳のとき、王景文謝瀹会って感心し南朝宋孝武帝言上した。孝武帝多くの人の集まる中に謝瀹召し出して挙動観察すると、その応対道理合っていた。孝武帝はたいへん喜んで公主を妻に迎えるよう謝瀹命じたが、劉子業が殺害される事件が起こると、取りやめになった。後に僕射の褚淵が謝瀹性格好ましく思って、娘をとつがせた。 謝瀹呉興郡太守であったとき、長城県民の盧道優の家が強盗遭い、盧道優は同県の殷孝悌ら4人を犯人として告発した謝瀹は殷孝悌らを県の獄に収監して取り調べさせた。殷孝悌の母は盧道優が殷孝悌誣告したもの訴えた謝瀹は殷孝悌の母の訴え聞くと、事件ひっくり返ったことを建康報告し、盧道優を法により斬刑処した謝瀹典薬の吏に湯を沸かすさせていたところを失火し、呉興郡外の斎南廂屋5間を焼いてしまった。そこで謝瀹我が身鞭打たせ、御史奏上させた。 494年隆昌元年)、西昌蕭鸞鬱林王蕭昭業廃位するため、兵を率いて殿中に入ると、側近たちが驚いて逃げ出し謝瀹報告した謝瀹は客と囲碁打っていたが、1子打つたびに「それ意あるべし」と言うばかりだった。対局が終わると、帰って寝てしまい、外の情勢を問わなかった。明帝蕭鸞)が即位すると、謝瀹は病にかこつけて官の仕事をしなかった。 後に明帝宴会を開くと、功臣たちが酒を献上し尚書令の王晏らが席を立ったが、謝瀹はひとり立ち上がらず、「陛下即位されたのは、天命従い民心順応したからですが、王晏は天の功をおのれの力であるかのように妄言しておりますと言った明帝大笑いして謝瀹許した。 兄の謝朏呉興郡太守となったが、上申仕事遅れていたため、謝瀹が代わって上申した明帝謝朏筆跡でないのを見とがめて、やり直させた。

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賀若敦」の記事における「逸話・人物」の解説

あるとき宇文泰甘泉宮狩猟を催すと、賀若敦はこれに従った勢子包囲偏りがあったため、獣たち多く逃げ出してしまい、宇文泰激怒して人々戦慄した包囲中に1頭の鹿が取り残されていたが、まもなくやはり包囲突破して逃げ出した賀若敦が馬を躍らせ駆け迫り、鹿が東山上ると、賀若敦は馬を棄てて歩いて山の半ばまで追い、鹿を引き止めて捕まえた宇文泰大喜びし、諸将たちは責任問われずに済んだ賀若敦は功を頼んで自負強かった。かれの同輩たちがみ大将軍となったにもかかわらず賀若敦はひとりその号を得られなかった。湘州戦いではかえって官爵剥奪されたため、不満を抱くようになった

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ウィリアム (ケンブリッジ公)」の記事における「逸話・人物」の解説

ローティーンの頃憧れていたのは、アメリカ人スーパーモデルシンディ・クロフォードであったウィリアムは母ダイアナ頼んでシンディケンジントン宮殿での茶会招待してもらった。3人でお茶の時間をともにしたが、「憧れ女性前にして恥ずかしさ真っ赤になり、話したくとも話せない状態になってしまった」という。 母ダイアナ離婚後皇太子妃時代王室誂えた衣装を着なくなったのを見てママ着ないなら、チャリティーオークション出品したら」とウィリアム提案ダイアナ息子提案を「妙案だ」とすぐに実行移した。 弟のヘンリー王子起こしたナチス・ドイツ時代仮装パーティー参加事件では、「服を選ぶ場所に一緒にいたのに、なぜ止めなかったのか」と父親チャールズ皇太子から叱責受けた大のサッカー好きで、現在プレミアリーグ所属するアストン・ヴィラFC大ファンイングランド・サッカー協会会長務めている。 オフロードバイク乗りこなすことができる。2008年には、南アフリカ共和国開催されたチャリティー・エンデューロレースにヘンリー王子とともに出場したことがある2021年5月エリザベス女王トップとした英国王室公式YouTubeチャンネルとは別にウィリアムキャサリン妃別途チャンネル開設したことを発表した

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三橋萬利」の記事における「逸話・人物」の解説

生まれて初めて手にした聖書読んでみても内容についてはさっぱり分りません。けれども、何か重々しいものを感じました。これは普通の本とは違うという印象を受けながら読んでいくうちに、あるときから特に「神」という言葉注目するようになりました今まで日本人の持つ神観とは異なるものでした。(...中略...)引力法則発見したあの有名なニュートンは、『私にとっては、引力法則発見したことより神の存在知ったことの方が、より偉大な発見であったと言ったそうです。私にとっても唯一の創造主知ったことは、彼の感激勝るとも劣らないほどすばらしいものでした。」―友人より聖書読み、「喜び訪れ」という項目から。 ”優しい夫、尊敬する父”として生涯を送る。しかし萬利は、「私は自分世話も満足にできないんです。教会お世話などできません。全部イエス様のおかげです。」と述べたという。 結婚50年近く一緒に歩み萬利幸子がいつも背負う。トイレに行くときも、お風呂に行くときも50年近く一緒海外だけでも夫婦共に36か国で伝道した。 ラブリー・チャペル牧師八巻正治自著聖書ハンディキャップ』の中で「数年前わたしたち教会がこの地にお招きした『札幌キリスト福音館』の三橋萬利牧師先生幸子夫人が、わずか一九歳で身体的に重いハンディキャップ有しておられる先生との結婚導かれたのも、この聖書御言葉忠実に従った結果でした。そして先生背負われて伝道励まれ結果今日では北海道代表するような素晴らしい主の教会形成することができたのでした。さらに幸子夫人また、マリヤと同じ祝福神様から受けられたのでした。ハレルヤ」と述べている(『同署』pp.177)

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立花宗茂」の記事における「逸話・人物」の解説

宗茂8歳の時、見世物があった。見物中、群集の中で争論起りついには殺される者がでた。人々慌てふためき逃げ散る中、宗茂は少しも恐れ様子もなく「今日見世物はこれで終わりか」と付き添いの者に尋ねた早く逃げましょうという付き添い対し宗茂笑ってお前たち慌てるとはおかしな事だ。我々はあの争論相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかってくることがあろうか。まだ見世物終わっていないのに、ここから立ち去る必要もあるまい」といい、すべてを見終ってから帰ったという。 13歳の時、立花道雪の供と一緒に近くの山を散歩中、付いたを足で踏み抜いた。当然の如く近習の者に「これを抜いてくれ」と頼むと由布惟信駆けつけ、抜く所か逆にを足に押し付けた叫び声上げようにも近く駕籠の中からは養父の道が眉を吊上げ見ており、叫ぶ事も出来ずに大変困った後年述懐したそうである。お坊ちゃま育ち故、立花氏来てからは大変厳しく教育された。 立花家婿養子に行く際に実父高橋紹運より「高橋立花の間に戦が起こった場合なんとする」と問われて、高橋味方する答えたところ、紹運に「養子行ったならばもはや高橋人間ではない。立花勢の先鋒となってわしを討ち取れ。道殿は常日頃から未練な振る舞い嫌っておられるので、おぬしに不覚行跡あろうものなら義絶されようその時高橋帰ろうと思うのではなく、この剣で直ちその場自害せよ」と一剣備前長光)を渡され諭された。宗茂はその剣を紹運の形見として、終生身辺から離さなかったという。 宗茂肥後一揆の鎮圧に功を上げ秀吉から加増しようと言われた際「もう自分が戦うに充分な兵力養え領土頂いてますので結構ですそれより戦の際に、先鋒使って頂ければ相応働きをもって答えたい思います」と断った。そして後の朝鮮役の大一番碧蹄館にて先陣任され宗茂の武は日ノ本随一称えられることになる。 文禄の役での碧蹄館の戦いでは敵の大軍前に悠然と昼食握り飯食べていた。この行為疑問持った家臣達に、昔上杉謙信小田原攻めの時もこうした答えたと伝わる(小野家文書による)。 関ヶ原の後の柳川城攻防戦開城当日筑後四郡の領民達は「殿様のためなら命も惜しまない」と涙ながらに降伏開城押しとどめようとした。しかし宗茂は「気持ち嬉しいが、皆を戦乱巻き込みたくないのだ。分かってほしい」と答え領民達は別れ涙ながらに宗茂見送ったまた、柳川回歸の際、出迎えの子供達は、関ヶ原後で生まれたけれども、宗茂事蹟よく知っているそれ程までに、彼は領民からの信望が篤かったと言える関ヶ原の戦い後浪人時代は、京都その日食べ物にも事欠く生活であったとされる(『浅川聞書』)、その一方で富士谷千右衛門由緒書き上げでは、しかるべき住居があり比較淡々と逗留生活を送ってたように書かれていて、経済的にさほど困窮していたわけではないとする指摘もある。米が足りないので家臣雑炊作って差し出した所、宗茂は「汁かけ飯食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな」と怒ったと言われる今まで裕福な暮らしをしていたので、米に困って雑炊作るという意味がわからなかったのだという。 家臣乞食出かける時には宗茂留守番をしていた。ある日家臣残飯干飯にするために日に干して出かけた所、その日突然降ってきた。家臣たちは宗茂がちゃん残飯濡れないように屋内取り込んでくれたかどうかと語り合い、「そんな些細な事に気をかけるような殿では、再仕官などおぼつかないだろう」という結論になった案の定帰宅すると、宗茂残飯放置して濡れるままにしていた。 ただし、実際には有力商人旧家臣団、加藤清正島津氏らの支援の下、客将として支援受けており、大名時代比べれば経済状態は当然悪化しているが、少なくとも、その日食事困るような生活ではなかったので、後世藩祖としての苦労際立たせる為に誇張された話であろうという説もある。 立花宗茂老境の際、養子立花忠茂や[[[徳川義直]]から戦における兵の運用に関して問われた。「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲与え国法触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命なげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」 「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば下知をしなくとも思い通りに動くものだ」 「彼(敵)のなさんとするところを先んじて我なせば、勝たざるごとなし」 「かの上謙信公は8千程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。かく言う自分経験上2,000程度兵数手足如く操れると感じたものだ。つまり大将の才、能力適した兵力大将の数だけあるという事兵力大小固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えたほうが良い結果得られるだろう」と語った。 以上の逸話『名将言行録』や『筑前博多史料豊前覚書』、『立斎旧聞記(続群書類従 三)』、『柳川藩叢書 第三集』、中野等立花宗茂』などによる。 『名将言行録』では、宗茂のことを「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ流るるが如し奸臣遠ざけ奢侈禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性出づ故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と記しているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉徳川家康からも高く評価されていた。また、宗茂関ヶ原の戦い後からの大名として復帰も、幕府寛大な処置取った稀有な例である。戦上手だではなく、常に温厚誠実に人に接し、そして義理堅く正直な人物などから「武士の中の武士」とも呼ばれた文武両道名将で、連歌書道茶道香道蹴鞠狂言能楽笛・舞曲・料理竹製花器手作り仏像・弓製作など多彩技芸にも長けていた文化人とされる剣術丸目長恵から文禄5年1596年10月タイ捨流免許皆伝受けている、自身抜刀術隋変流を開祖し、後年中村天風もその剣術修得した弓術天正18年1590年)に尾連続慶長6年1601年10月には中江新八慶長7年1602年)には吉田茂武から日置流免許それぞれ受けている。 茶道細川忠興からも一目置かれていたようで、忠興は子の細川忠利に対して数寄の事は宗茂見習事と書き記している。また、忠興から宗茂借金をして茶器購入したり、逆に宗茂茶器忠興貸したりという文書残っているので、茶道通じてかなり両者の関係親密であった思われる香道後陽成天皇の弟の良恕法親王より「薰物」を贈られている。 蹴鞠飛鳥井雅春から「鞠道」の門弟として、小早川隆景とともに「紫組之冠懸」を免許されている。 笛は憩いひとときに「一節切」という笛を常に吹いた酒豪かつ愛烟家でもあった。開戦の前で常に5重の大盃沖の石」を飲み干し長い軍旅にも烟草戦術考える時や養生のために吸った身長着用甲冑推断しておよそ175~180センチ程度また、本多忠勝の話から宗茂の背が高くて乗馬大きいことが知られる温厚な人物であったというのが一般的な説である。 正室誾千代弔うために、山門郡瀬高上荘の来迎寺住職で、かつての柳川城主の蒲池鑑盛蒲池宗雪)の孫である応誉上人招き良清寺創建した。 『徳川実紀』では「立花飛騨守宗茂入道立斎はさる古兵にて武名一時に隠れなし。当代御咄衆第一にて御待遇並々ならず」と記述されている。家光の頃の様子について『立斎旧聞記』には「この日本諸大名歴々たりといえども御前にて頭巾禿げ隠し)をかぶり、殿中にてをつく人は宗茂の他は一人もないとのことである。今すでに、将軍寵遇、他に超えたり」とあり、寵遇さることながら江戸城中においても特別扱い許されていることが窺えるまた、御前にて頭巾禿げ隠し)をかぶり、殿中にてをつく人」とあり、晩年には宗茂健康状態に不安があったことが窺える徳川家康宗茂畏敬賞賛していた。二条城上洛した際、本多正信に、直々に絶賛した記録残っている。武田信玄上杉謙信織田信長等の名だたる武将比肩して。正信は、殿がそのように褒めお方は誰にと問えば家康公の仰に天下隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」(翁物語) 「西国一の猛將で、比類なき武芸達人」(大津籠城合戦記・京極高次家臣からの評価九州大学大学院助教授中野等は「激動の時代背景生きた、たぐい稀なる才能持った人物だと」評している。 菊池寛は「秀吉は、(宗茂を)本多忠勝比べてゐるが、本多忠勝などよりも、遥に秀ぐれた武将である。」と評している。 現在の福岡県筑後地方南部流れ花宗川の名は、立花宗茂真ん中の2文字取ったのである

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厙狄伏連」の記事における「逸話・人物」の解説

伏連は質実で、公務勤勉であり、宿営の官に欠員のあるときには朝夕も帝の居所離れなかった。 伏連は吝嗇残忍であり、民衆統治する術をもたなかった。州の刺史の任にあったときにはもっぱら収奪事としていた。かれの非情なふるまい士人にもおよび、官位を持つ人物鞭打ち加え城壁を築くために強制的に動員した。 伏連の家の使用人は百を数えたが、盛夏の日に倉の米を2升与えるばかりで、塩菜与えなかったため、いつも飢え衰えていた。冬至の日の祝いに伏連の妻が豆餅作って与えると、伏連はこの豆をどこで手に入れたのか詰問した。妻が飼馬の豆を減らして捻出したと答えると、伏連は激怒し馬の飼育厨房担当する者たちに杖罰加えた。 伏連は積年賜物に別庫を設けて侍婢1人派遣して管理していた。伏連が庫に入って検閲するたびに、必ず「これは官の物であるので、使用することができない」と妻子語っていた。こうして賜物記録して官府提出していた。

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正室院」の記事における「逸話・人物」の解説

斎藤利治生涯側室迎い入れず正室院のみ妻とした。佐藤忠能への恩義夫婦仲がとてもよかったと云われている 。 軍記物で「正室院紀伊守の息女にて則ち新五の正室なり。」との記載があり、戒名正室院等源妙覚大姉である。 加治田衆家臣団斎藤利治中心によくまとまったのも、正室院との繋がり一因であるとされる

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羅含」の記事における「逸話・人物」の解説

羅含若い頃昼寝をしていたところ、1羽の文彩模様色彩あでやかな口中飛び込む夢を見た驚いて飛び起きてそのことを話すと、朱氏が「文彩文才)あるは、なんじ後に必ず文章あり」と説いた。このことがあってから後、羅含文章才能日増しに新しいものになっていった。 羅含の父は新淦県の宰をつとめたことがあり、新淦出身の楊羨が荊州の州将となると羅含主簿として招いた羅含傲然として応じなかったが、楊羨が招聘繰り返してやまないので、断り切れず就任した。楊羨が職を辞職して故郷帰るとき、羅含は楊羨を新淦まで送っていった。新淦の人は羅含以前の県宰の子であることから、みな賄賂贈ってきたが、羅含咎めずこれを受け取った帰るときに賄賂には全て封をして、その場置いて立ち去った江夏郡太守謝尚は、羅含とともに世俗外の世界好んでおり、「羅君章は湘中の琳琅謂うべし」と評した桓温羅含謝尚のもとに派遣して取り調べさせたことがあった。羅含謝尚ところに着くと、仕事放りだして、謝尚連日飲み明かし帰った桓温取り調べのことを訊ねると、羅含は「公は謝尚のことをどのような人物思われますか」と逆に訊ねた桓温が「我に勝る人物である」と答えると、羅含は「どうして公に勝る人物の行いに非がありましょうか。問う必要のないことです」とはぐらかした桓温はその問答面白がって羅含責めなかった。 羅含荊州別駕となると役所騒がしいことから、城西の池の小洲の上ぶきの小屋立て、木を伐って木材とし、葦を織って席を作って座り粗衣粗食平然としていた。桓温属僚たちと宴会を開くと、羅含遅れてやってきた。桓温が「これはどのような人か」と衆座の人々訊ねると、ある人が「の材と謂うべし」と答えたので、桓温は「これは江左の秀であって、どうしてのみに限ることがあろうか」と言った

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逸話・人物

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徐之才」の記事における「逸話・人物」の解説

之才が幼年のとき、従兄徐康とともに周捨の邸で『老子』の講義聴いたことがあった。周捨食事用意すると、「徐郎は義を思うに心を用いず、ただ食事用いられますのか」と戯れにいうと、之才は「けだし聖人はその心を虚にしてその腹を実とすると聞きます」と答えた周捨はこれに感心した。 之才が太学生のとき、劉孝綽裴子野張嵊らと『周易』や『儀礼喪服篇について議論した。その応酬は響くがごとくで、「これ神童なり」とみなを感嘆させた。 劉孝綽は之才について「徐郎は燕のような頷をしており、班定遠定遠班超)の相がある」といった。 丹陽尹役所火災遭ったとき、之才は夜間衣服着ず、紅布をまとって部屋出て見物しているところを袁昂見られた。功曹は之才を免職させたい上申したが、袁昂は之才の才能重んじて特別に原職のままにとどめた。 之才は若くして天文学び図讖学問修めた。館客の宋景業とともに吉凶調べて午年550年)に必ずや易姓革命起こり高徳高氏)による政治開かれる知った高洋はこれを聞いてたいへん喜んだこのころ婁昭君東魏の勲貴の臣たちはみな西魏宇文泰天子擁して諸侯号令するのを恐れており、先行して革命することはできない考えていた。之才はひとり「千人追放しても、一人天子得たなら、人々休息することができる。大業定めるべきで、軽薄な学者意見容れるべきではない」といった。 562年大寧2年)春、武明太后が再び病にかかった。之才の弟の徐之範尚薬典御となっており、武成帝の命を受けて診察した内史太后のことを石婆と呼んでいたが、俗忌に触れるとしてこのとき呼び名改めた徐之範がこれを怪しんで兄に相談すると、之才は字義読み解いて4月中の異変予言した。はたして4月1日太后死去した武成帝には親知らず生えていたことから、医者たちにこれを訊ねた尚薬典御の鄧宣文がまともな返答をすると、武成帝怒ってこれを鞭打った。後に之才に訊ねると、之才は「これは智牙でありまして、智牙の生える者は聡明長寿なのです」と答えたので、武成帝喜んで之才に褒美与えた568年武成帝酒色の度を過ごしていたため、空中観音幻影を見るようになった。之才が薬湯処方すると、回復兆し見せたが、和士開策動により之才が兗州刺史転任すると、武成帝容体悪化した10月8日に之才を召還する命令下ったが、10日武成帝死去した。之才が到着したのは11日のことであった左僕射の官が欠員となると、之才は「わたしが禹の治績復興できる」といった。 之才が僕射であったとき、「わたしは江東徐勉僕射になったのを見たが、かれにおもねらない朝士はいなかった。今わたしは徐僕射となったが、誰ひとりわたしにおもねろうとはしない何を生き甲斐とすべきだろうか」と人に語った。 之才の妻は東魏広陽王元湛の妹であり、之才が高澄に膝を屈して妻に求めた女性であった和士開がこれを知ると、之才の妻を犯した。之才は和士開と会うのを避けるようになり、退いて少年にふざけ笑いさせまい」といった。 之才は和士開陸令萱家族が病に苦しむと、その救護尽くした。 之才は祖珽恨んで「子野(師曠の字)、我を沙汰す」といった。祖珽眼病にかかると、このため師曠喩えられた。 ある人が足の腫れあがる病にかかったが、医者たちには対処できなかった。之才がかれを診ると、「の精の病です。船に乗って海に入り、脚を水中垂らすかかります」と診断した患者が「実際にかつてそのようなことがありましたというと、之才が手術する2匹が見つかり、ニレ実のように大きくなっていた。

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逸話・人物

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李元吉」の記事における「逸話・人物」の解説

元吉生まれたとき、竇夫人元吉容貌嫌って取り上げず、侍媼の陳善意乳母となって育てたと言われる少年時代元吉は、つねづね奴隷や婦妾たちを駆り立てて戦争ごっこをやり、死傷者が出るほどであった。のちに元吉負傷したので、陳善意がこの遊びをやめさせたところ、元吉怒って壮士命じて善意をひしぎ殺させ、慈訓夫人の私諡を贈った劉武周汾州晋州攻略すると、李淵は右衛将軍宇文歆を太原派遣して守らせた。元吉好み、いつも網を載せた三十の車を出して、「わたしは三日食わないことはできるが、一日でも猟をしないことはできないと言っていた。夜は民家出没して淫行重ね、府門は閉じられなかった。宇文歆はうるさく諫めたが、容れられなかったので、「斉王はたびたび竇誕とともに狩猟に出かけ、民の田畑踏み荒らし側近略奪ほしいままにするので、畜産絶えてしまいました道すがら弓を射かけて、人が矢を避けるのを見て楽しみとしています。百姓恨み甚だしいもので、とてもともに守ることはできません」と李淵報告した李淵宇文歆を召還した。 特に槍術優れており、槍術達人であった尉遅敬徳勝負したエピソードが伝わる。 左車騎将軍謝叔方は直属の将である。

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佐藤成次」の記事における「逸話・人物」の解説

伊深佐藤氏であり、旗本二代目伊深の領主となる。又多く普請事業行った。 伊深領主となった時、関山国師遺跡復興し、伊深正眼寺中興した功労者である。 墓地は、岐阜県美濃加茂市伊深町にあり、本堂山中に墓と御霊屋がある。宝蔵には佐藤家縁の甲冑古文書納められている 。 正眼寺には、成次の佐藤吉次坐像」が保存されている。

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逸話・人物

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盧元明」の記事における「逸話・人物」の解説

盧元明若いころ郷里から洛陽帰る途中で相州刺史中山王元熙のもとを立ち寄った元熙は「盧郎は風采が神がかっているので、離騒誦して、美酒飲めばおのずとよい器となるだろう」と言って感心した盧元明がある夜にみた夢の中で潁川に住む友人の王由が酒を携えて元明のもとにやってきて別れ告げ、詩を賦して贈ってきた。目を覚ますと、その詩のうちの10字を覚えていて、「自茲一去後、市朝不復遊」というものであった元明は「王由は俗世間合わない性格で、人々のあいだを渡り歩いて寄宿してきた。いまこのような夢をみたのも、必ずや彼にゆえあってのことに違いないと言って嘆いた3日経つと、はたして王由が反乱兵に殺害されたとの報が伝えられた。まもなく、王由が亡くなった日が夢を見たであったことが判明した盧元明はあまり交遊しなかったが、酒を飲んで詩を賦すことを楽しんだ玄理好んで、『史子新論数十篇を作りその他の文章はまた別に文集採録した。 盧元明は三たび妻を迎えた2番目の妻の鄭氏は、鄭厳祖の妹であった李神儁も彼女と結婚しようとして2人争いになり、鄭厳祖の玄関の前で殴りあい喧嘩をした。結局、鄭氏は元明結婚したが、元明の兄の子の盧士啓と私通した。しかし元明離縁することができなかった。

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