逸話・人物
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隋初の州刺史は珍しい物産を献上するものが多かったが、ひとり彦之のみは供祭の物を献上した。文帝は朝臣の前で彦之のことを賞賛した。 彦之は仏教を信仰すること篤く、潞州の城内に仏寺2カ所を建立し、ともに15層あったと伝えられる。 591年、潞州の張元が突然死し、数日後に蘇生する事件があった。張元は次のような臨死体験を語った。張元は天上に遊んで、きわめて美麗な堂が新築されるのを見た。張元が新築のわけを訊ねると、天上の人は潞州刺史の辛彦之に功徳があるので、この堂を造って待っているのだと言った。彦之はこの話を聞くと、喜ばなかった。彦之はこの年のうちに死去した。
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逸話・人物
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王坦之は弱冠にして郗超とともに名を知られるようになり、「盛徳に絶倫なるは郗嘉賓、江東に独歩たるは王文度」と言われて併称された。 尚書僕射の江虨が官吏の選抜の任をつとめたとき、王坦之は尚書郎の候補者に擬せられた。坦之がこのことを聞くと、「南渡以来、尚書郎は2流の人間(第二人)が任用されることとなっている。どうして(私のような人間を)尚書郎に充てることができようか」と言った。江虨はそこで取りやめた。 王坦之は刑名学を尊び、「廃荘論」を著して、当時の老荘思想にもとづいた議論を放蕩なものとみなして批判した。 孔厳が「通葛論」を著すと、王坦之は手紙を出してこれを賛美した。 王坦之は僧の支遁と仲が悪く、支遁のことを詭弁家と決めつけ、「沙門は高士たるを得ず」という文章を著した。 王坦之は僧の竺法潜とつき合いが深く、ともに幽明報応のことを論じ合った。
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逸話・人物
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李鳳は、狩猟遊びを喜び、属官を侮った。奴隷に虎皮をかぶせて脅かし、その参軍の陸英俊が恐怖のあまり間もなく死ぬと、呵々大笑して楽しんだという。
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逸話・人物
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羊烈は読書を好み、名理についてよく語って、玄学で名を知られた。 羊烈の家は閨閥で知られ、一門の女は再婚しないことを誇りとした。北魏の太和年間、羊家は兗州に尼寺を作り、夫を失い子のいない独居女性をそろって出家させて尼とした。 羊烈は北斉の天統年間に尚書の畢義雲と兗州大中正の位をめぐって争った。畢義雲は門閥を誇り、「わたしは代々兗州刺史をつとめた家柄だ。卿の家は代々わが家の故吏ではないか」と言い放った。羊烈は、「卿の家は畢軌が殺されて帰ってから、人物がいない。最近は刺史になったといって、みなろくなやつではなく、言うに足りない。わが家の人物は、漢の河南尹や晋の太傅のように、名声と徳行と学問がそろい、後世に美を伝える人物ばかりだ。なおかつ男は清廉で女は貞淑であり、賞賛するに足りる人物がほかより多いといわねばならない」と言い返した。
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逸話・人物
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かつて鹿悆が徐州を訪れたとき、馬が病気にかかったため、船に乗せて大梁までやってきた。夜眠っていると、従者が岸に上がって藁4束を盗んでその馬に食わせた。船が数里行って、鹿悆が目覚め、藁の出所を問い質すと、従者は盗んだことを告白した。鹿悆は激怒し、船を停めて岸に上がり、藁を取ったところに赴き、固織りの絹織物3丈を藁束の下に置いて返した。 鹿悆は五言詩を賦した。「嶧山万丈樹、雕鏤作琵琶、由此材高遠、弦響藹中華」と。また「援琴起何調、幽蘭與白雪、絲管韻未成、莫使弦響絶」と。 梁州には兵糧の和糴があり、和糴は横領され放題であったが、鹿悆はひとり取ることはなかった。元子直が取るよう命じたが、鹿悆はその命に従わなかった。 豫章王蕭綜が北魏に帰順する意志を示したため、鹿悆が徐州に派遣された。蕭綜の軍主の程兵潤に止められて詰問されると、鹿悆は臨淮王元彧の使者で交易を望んでいると主張した。蕭綜は鹿悆が捕らえられたと聞くと、元略に謀反の疑惑があり、その調査のために北魏に派遣した人物だと成景儁らに説明した。蕭綜は腹心の梁話を派遣して鹿悆を迎えて密談した。
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逸話・人物
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太平洋戦争後の戦災孤児の姿に心を痛めた。母国へ帰国する時、子供たちと「また日本に来る」と約束をする。日本へ渡る時、夫婦に迷いはなく、大垣市では知的障害施設がほとんどなかったことから、「あゆみの家」を創立。 妻ベルニダが「貧しい子供時代を過ごした夫は、弱い立場の人たちをいつも気に掛けていた」と振り返る。 夫ボーマンを支えるため、ベルニダは教会仲間と共にリサイクルショップ「あゆみ」を経営し、仲間と共にボランティアとして毎月の売り上げからあゆみの家に寄付をした。
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逸話・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 04:04 UTC 版)
王懿は若くして陰陽に通じ、声律を解した。 王懿は慕容垂と戦って敗れると、重傷を負って逃走し、家族ともはぐれた。道は大沢にかかり、前進できなくなって、困窮の果てに林中に倒れ伏した。そこに忽然と青衣の童児が牛に乗って現れ、王懿を見て「食べていないのか」と訊ねると、王懿は飢えを告白した。童児は去り、ほどなくまたやってくると、王懿に食を与えた。王懿は食べ終わると、元気を回復して再び出発した。行くところ河の瀑布に突き当たり、渡りかたが分からなかった。そこに1匹の白い狼が現れ、天を仰いでひと吠えして吠え終わると、王懿の衣を銜えて河を渡った。王懿がこれについて行くと、無事渡ることができ、兄の王叡とも再会できたという。 王懿が翟遼のもとを逃れて泰山に向かうと、翟遼に追っ手の騎兵をかけられた。夜間に進んだが、忽然と炬火が現れて先導し、王懿はこれに従って進み、100里ばかり行くと、逃れることができたという。 劉裕らが桓玄を討って建康を平定すると、王懿は王叡の子の王方回を抱いて劉裕と面会し、劉裕は馬上で方回を抱いて王懿とともに泣いた。王叡には給事中の位が追贈され、安複県侯に追封された。 430年の北伐でひとたび魏軍を破ると、宋軍は戦勝に湧いたが、王懿はひとり憂色に沈み、「胡虜は仁義に足らないといえど、凶暴狡猾に余りあり、いま戈をおさめて北に帰っても、戦力を集結し、黄河の凍る冬となれば、どうして三軍の憂いとならないことがあろうか」といった。王懿の懸念は当たってこの冬に北魏の反攻を受けて宋軍は大敗を喫した。 到彦之は虎牢と洛陽が守りきれないと聞くと、舟を焼いて徒歩で逃げようとした。王懿は「洛陽がすでに陥落し、虎牢が守りきれないというのは、勢いのしかるところです。いま賊は我を去ること千里にあり、滑台にはなお強兵がありますが、もし即座に舟を捨てて逃走すれば、兵士は散り散りになってしまいます。済水に入って馬耳谷口に行けば、もっとしかるべきところがありましょう」と言った。王懿は軍を済南郡歴城に立ち寄らせて撤退させ、舟を焼き武具を遺棄すると、彭城に帰還した。 王懿は3度徐州刺史をつとめて威信があり、彭城に仏寺を建て、白狼と童子の像を作って塔中におさめた。これらの像はかつて河北で遭遇した者たちをモデルとしていた。
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逸話・人物
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李淵が太原で起兵する前、唐倹は「公は朝廷の一角を占め、姓は隋の楊氏に取って代わると予言された李氏であり、天下は長らく公を待ち望んでおります。もし官庫を開いて、南に豪傑を集め、北に戎狄を招き、東に燕・趙の地を収め、長駆して黄河を渡り、秦・雍の地に拠れば、殷の湯王や周の武王のように王業を立てることができましょう」と李淵に言った。 太宗に従って洛陽の苑で狩猟をしたときのこと。イノシシの群れが林から飛び出してきて、太宗は四発の矢を射て、四匹のイノシシを倒した。一匹のイノシシが躍り上がって馬の鐙に達したので、唐倹は馬を捨てて逃げた。太宗は剣を抜いてイノシシを斬り、「天策長史はどうしてこいつをそんなに恐れるのか?」と笑った。唐倹は「漢の高祖は馬上で天下を得て、馬上で天下を治めなかったといいます。陛下は神武をもって四方を定められましたのに、どうしてまた獣一匹のことで喜ばれますのか」と答えた。
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逸話・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:20 UTC 版)
謝瀹が7歳のとき、王景文が謝瀹と会って感心し、南朝宋の孝武帝に言上した。孝武帝は多くの人の集まる中に謝瀹を召し出して、挙動を観察すると、その応対は道理に合っていた。孝武帝はたいへん喜んで、公主を妻に迎えるよう謝瀹に命じたが、劉子業が殺害される事件が起こると、取りやめになった。後に僕射の褚淵が謝瀹の性格を好ましく思って、娘をとつがせた。 謝瀹が呉興郡太守であったとき、長城県民の盧道優の家が強盗に遭い、盧道優は同県の殷孝悌ら4人を犯人として告発した。謝瀹は殷孝悌らを県の獄に収監して取り調べさせた。殷孝悌の母は盧道優が殷孝悌を誣告したものと訴えた。謝瀹は殷孝悌の母の訴えを聞くと、事件がひっくり返ったことを建康に報告し、盧道優を法により斬刑に処した。 謝瀹が典薬の吏に湯を沸かすさせていたところを失火し、呉興郡外の斎南廂屋5間を焼いてしまった。そこで謝瀹は我が身を鞭打たせ、御史に奏上させた。 494年(隆昌元年)、西昌侯蕭鸞が鬱林王蕭昭業を廃位するため、兵を率いて殿中に入ると、側近たちが驚いて逃げ出し、謝瀹に報告した。謝瀹は客と囲碁を打っていたが、1子打つたびに「それ意あるべし」と言うばかりだった。対局が終わると、帰って寝てしまい、外の情勢を問わなかった。明帝(蕭鸞)が即位すると、謝瀹は病にかこつけて官の仕事をしなかった。 後に明帝が宴会を開くと、功臣たちが酒を献上し、尚書令の王晏らが席を立ったが、謝瀹はひとり立ち上がらず、「陛下が即位されたのは、天命に従い民心に順応したからですが、王晏は天の功をおのれの力であるかのように妄言しております」と言った。明帝は大笑いして謝瀹を許した。 兄の謝朏が呉興郡太守となったが、上申の仕事が遅れていたため、謝瀹が代わって上申した。明帝は謝朏の筆跡でないのを見とがめて、やり直させた。
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逸話・人物
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あるとき宇文泰が甘泉宮で狩猟を催すと、賀若敦はこれに従った。勢子の包囲に偏りがあったため、獣たちの多くは逃げ出してしまい、宇文泰が激怒して、人々は戦慄した。包囲の中に1頭の鹿が取り残されていたが、まもなくやはり包囲を突破して逃げ出した。賀若敦が馬を躍らせて駆け迫り、鹿が東山に上ると、賀若敦は馬を棄てて歩いて山の半ばまで追い、鹿を引き止めて捕まえた。宇文泰は大喜びし、諸将たちは責任を問われずに済んだ。 賀若敦は功を頼んで自負が強かった。かれの同輩たちがみな大将軍となったにもかかわらず、賀若敦はひとりその号を得られなかった。湘州の戦いではかえって官爵を剥奪されたため、不満を抱くようになった。
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逸話・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 22:34 UTC 版)
「ウィリアム (ケンブリッジ公)」の記事における「逸話・人物」の解説
ローティーンの頃憧れていたのは、アメリカ人スーパーモデルのシンディ・クロフォードであった。ウィリアムは母ダイアナに頼んで、シンディをケンジントン宮殿での茶会に招待してもらった。3人でお茶の時間をともにしたが、「憧れの女性を前にして恥ずかしさで真っ赤になり、話したくとも話せない状態になってしまった」という。 母ダイアナが離婚後、皇太子妃時代に王室で誂えた衣装を着なくなったのを見て「ママが着ないなら、チャリティーオークションに出品したら」とウィリアムは提案。ダイアナは息子の提案を「妙案だ」とすぐに実行に移した。 弟のヘンリー王子が起こしたナチス・ドイツ時代仮装パーティー参加事件では、「服を選ぶ場所に一緒にいたのに、なぜ止めなかったのか」と父親のチャールズ皇太子から叱責を受けた。 大のサッカー好きで、現在プレミアリーグに所属するアストン・ヴィラFCの大ファン。イングランド・サッカー協会の会長も務めている。 オフロードバイクを乗りこなすことができる。2008年には、南アフリカ共和国で開催されたチャリティー・エンデューロレースにヘンリー王子とともに出場したことがある。 2021年5月、エリザベス女王をトップとした英国王室の公式YouTubeチャンネルとは別に、ウィリアムとキャサリン妃で別途のチャンネルを開設したことを発表した。
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逸話・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 03:12 UTC 版)
「生まれて初めて手にした聖書。読んでみても内容についてはさっぱり分りません。けれども、何か重々しいものを感じました。これは普通の本とは違うという印象を受けながら読んでいくうちに、あるときから特に「神」という言葉に注目するようになりました。今までの日本人の持つ神観とは異なるものでした。(...中略...)引力の法則を発見したあの有名なニュートンは、『私にとっては、引力の法則を発見したことより、神の存在を知ったことの方が、より偉大な発見であった』と言ったそうです。私にとっても、唯一の創造主を知ったことは、彼の感激に勝るとも劣らないほどすばらしいものでした。」―友人より聖書を読み、「喜びの訪れ」という項目から。 ”優しい夫、尊敬する父”として生涯を送る。しかし萬利は、「私は自分の世話も満足にできないんです。教会のお世話などできません。全部イエス様のおかげです。」と述べたという。 結婚後50年近く一緒に歩み、萬利を幸子がいつも背負う。トイレに行くときも、お風呂に行くときも50年近く一緒。海外だけでも夫婦共に36か国で伝道した。 ラブリー・チャペル元牧師の八巻正治は自著『聖書とハンディキャップ』の中で「数年前にわたしたちの教会がこの地にお招きした『札幌キリスト福音館』の三橋萬利牧師先生の幸子夫人が、わずか一九歳で身体的に重いハンディキャップを有しておられる先生との結婚に導かれたのも、この聖書の御言葉に忠実に従った結果でした。そして先生を背負われて伝道に励まれた結果、今日では北海道を代表するような素晴らしい主の教会を形成することができたのでした。さらに幸子夫人もまた、マリヤと同じ祝福を神様から受けられたのでした。ハレルヤ」と述べている(『同署』pp.177)
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逸話・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 12:02 UTC 版)
宗茂が8歳の時、見世物があった。見物中、群集の中で争論が起り、ついには殺される者がでた。人々は慌てふためき逃げ散る中、宗茂は少しも恐れる様子もなく「今日の見世物はこれで終わりか」と付き添いの者に尋ねた。早く逃げましょうという付き添いに対し宗茂は笑って「お前たちが慌てるとはおかしな事だ。我々はあの争論の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかってくることがあろうか。まだ見世物も終わっていないのに、ここから立ち去る必要もあるまい」といい、すべてを見終ってから帰ったという。 13歳の時、立花道雪の供と一緒に近くの山を散歩中、棘の付いた栗を足で踏み抜いた。当然の如く近習の者に「これを抜いてくれ」と頼むと由布惟信が駆けつけ、抜く所か逆に栗を足に押し付けた。叫び声を上げようにも近くの駕籠の中からは養父の道雪が眉を吊上げて見ており、叫ぶ事も出来ずに大変困ったと後年述懐したそうである。お坊ちゃま育ち故、立花氏に来てからは大変厳しく教育された。 立花家へ婿養子に行く際に実父の高橋紹運より「高橋と立花の間に戦が起こった場合はなんとする」と問われて、高橋に味方すると答えたところ、紹運に「養子に行ったならばもはや高橋の人間ではない。立花勢の先鋒となってわしを討ち取れ。道雪殿は常日頃から未練な振る舞いを嫌っておられるので、おぬしに不覚の行跡あろうものなら義絶されよう。その時は高橋に帰ろうと思うのではなく、この剣で直ちにその場で自害せよ」と一剣(備前長光)を渡され諭された。宗茂はその剣を紹運の形見として、終生身辺から離さなかったという。 宗茂が肥後一揆の鎮圧に功を上げ、秀吉から加増しようと言われた際「もう自分が戦うに充分な兵力を養える領土は頂いてますので結構です。それより戦の際に、先鋒に使って頂ければ相応の働きをもって答えたいと思います」と断った。そして後の朝鮮役の大一番、碧蹄館にて先陣を任された宗茂の武は日ノ本随一と称えられることになる。 文禄の役での碧蹄館の戦いでは敵の大軍の前にも悠然と昼食の握り飯を食べていた。この行為に疑問を持った家臣達に、昔上杉謙信が小田原攻めの時もこうしたと答えたと伝わる(小野家文書による)。 関ヶ原の後の柳川城攻防戦で開城当日、筑後四郡の領民達は「殿様のためなら命も惜しまない」と涙ながらに降伏開城を押しとどめようとした。しかし宗茂は「気持ちは嬉しいが、皆を戦乱に巻き込みたくないのだ。分かってほしい」と答え、領民達は別れを涙ながらに宗茂を見送った。また、柳川回歸の際、出迎えの子供達は、関ヶ原の後で生まれたけれども、宗茂の事蹟をよく知っている。それ程までに、彼は領民からの信望が篤かったと言える。 関ヶ原の戦い後の浪人時代は、京都でその日の食べ物にも事欠く生活であったとされる(『浅川聞書』)、その一方で富士谷千右衛門の由緒書き上げでは、しかるべき住居があり比較的淡々と逗留生活を送っていたように書かれていて、経済的にさほど困窮していたわけではないとする指摘もある。米が足りないので家臣が雑炊を作って差し出した所、宗茂は「汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな」と怒ったと言われる。今まで裕福な暮らしをしていたので、米に困って雑炊を作るという意味がわからなかったのだという。 家臣が乞食に出かける時には、宗茂が留守番をしていた。ある日家臣が残飯を干飯にするために日に干して出かけた所、その日突然雨が降ってきた。家臣たちは宗茂がちゃんと残飯を雨に濡れないように屋内に取り込んでくれたかどうかと語り合い、「そんな些細な事に気をかけるような殿では、再仕官などおぼつかないだろう」という結論になった。案の定帰宅すると、宗茂は残飯を放置して雨に濡れるままにしていた。 ただし、実際には有力商人や旧家臣団、加藤清正や島津氏らの支援の下、客将として支援を受けており、大名時代に比べれば経済状態は当然悪化しているが、少なくとも、その日の食事に困るような生活ではなかったので、後世に藩祖としての苦労を際立たせる為に誇張された話であろうという説もある。 立花宗茂が老境の際、養子立花忠茂や[[[徳川義直]]から戦における兵の運用に関して問われた。「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」 「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」 「彼(敵)のなさんとするところを、先んじて我なせば、勝たざるごとなし」 「かの上杉謙信公は8千程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。かく言う自分は経験上2,000程度の兵数が手足の如く操れると感じたものだ。つまり大将の才、能力に適した兵力は大将の数だけあるという事。兵力の大小に固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えたほうが良い結果が得られるだろう」と語った。 以上の逸話は『名将言行録』や『筑前博多史料豊前覚書』、『立斎旧聞記(続群書類従 三)』、『柳川藩叢書 第三集』、中野等『立花宗茂』などによる。 『名将言行録』では、宗茂のことを「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と記しているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていた。また、宗茂の関ヶ原の戦い後からの大名としての復帰も、幕府が寛大な処置を取った稀有な例である。戦上手だけではなく、常に温厚で誠実に人に接し、そして義理堅く正直な人物などから「武士の中の武士」とも呼ばれた。 文武両道の名将で、連歌・書道・茶道・香道・蹴鞠・狂言・能楽・笛・舞曲・料理・竹製花器・手作り仏像・弓製作など多彩の技芸にも長けていた文化人とされる。剣術は丸目長恵から文禄5年(1596年)10月にタイ捨流の免許皆伝を受けている、自身も抜刀術隋変流を開祖し、後年の中村天風もその剣術を修得した。 弓術は天正18年(1590年)に尾村連続、慶長6年(1601年)10月には中江新八、慶長7年(1602年)には吉田茂武から日置流の免許をそれぞれ受けている。 茶道は細川忠興からも一目置かれていたようで、忠興は子の細川忠利に対して、数寄の事は宗茂を見習う事と書き記している。また、忠興から宗茂が借金をして茶器を購入したり、逆に宗茂の茶器を忠興に貸したりという文書も残っているので、茶道を通じてかなり両者の関係は親密であったと思われる。 香道は後陽成天皇の弟の良恕法親王より「薰物」を贈られている。 蹴鞠は飛鳥井雅春から「鞠道」の門弟として、小早川隆景とともに「紫組之冠懸」を免許されている。 笛は憩いのひとときに「一節切」という笛を常に吹いた。 酒豪かつ愛烟家でもあった。開戦の前で常に5重の大盃「沖の石」を飲み干し、長い軍旅にも烟草を戦術を考える時や養生のために吸った。 身長は着用甲冑で推断しておよそ175~180センチ程度。また、本多忠勝の話から宗茂の背が高くて乗馬も大きいことが知られる。 温厚な人物であったというのが一般的な説である。 正室の誾千代を弔うために、山門郡瀬高上荘の来迎寺の住職で、かつての柳川城主の蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の孫である応誉上人を招き、良清寺を創建した。 『徳川実紀』では「立花飛騨守宗茂入道立斎はさる古兵にて武名一時に隠れなし。当代御咄衆の第一にて御待遇並々ならず」と記述されている。家光の頃の様子について『立斎旧聞記』には「この日本の諸大名歴々たりといえども、御前にて頭巾(禿げ隠し)をかぶり、殿中にて杖をつく人は宗茂の他は一人もないとのことである。今すでに、将軍の寵遇、他に超えたり」とあり、寵遇もさることながら、江戸城中においても特別扱いが許されていることが窺える。また、「御前にて頭巾(禿げ隠し)をかぶり、殿中にて杖をつく人」とあり、晩年には宗茂の健康状態に不安があったことが窺える。 徳川家康は宗茂を畏敬し賞賛していた。二条城に上洛した際、本多正信に、直々に絶賛した記録が残っている。武田信玄、上杉謙信、織田信長等の名だたる武将と比肩して。正信は、殿がそのように褒めるお方は誰にと問えば「家康公の仰に、天下に隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」(翁物語) 「西国一の猛將で、比類なき武芸の達人」(大津籠城合戦記・京極高次の家臣からの評価) 九州大学大学院助教授の 中野等は「激動の時代を背景に生きた、たぐい稀なる才能を持った人物だと」評している。 菊池寛は「秀吉は、(宗茂を)本多忠勝と比べてゐるが、本多忠勝などよりも、遥に秀ぐれた武将である。」と評している。 現在の福岡県の筑後地方南部を流れる花宗川の名は、立花宗茂の真ん中の2文字を取ったものである。
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逸話・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 09:54 UTC 版)
伏連は質実素朴で、公務に勤勉であり、宿営の官に欠員のあるときには、朝夕も帝の居所を離れなかった。 伏連は吝嗇で残忍であり、民衆を統治する術をもたなかった。州の刺史の任にあったときには、もっぱら収奪を事としていた。かれの非情なふるまいは士人にもおよび、官位を持つ人物に鞭打ちを加え、城壁を築くために強制的に動員した。 伏連の家の使用人は百を数えたが、盛夏の日に倉の米を2升与えるばかりで、塩菜を与えなかったため、いつも飢え衰えていた。冬至の日の祝いに伏連の妻が豆餅を作って与えると、伏連はこの豆をどこで手に入れたのか詰問した。妻が飼馬の豆を減らして捻出したと答えると、伏連は激怒し、馬の飼育や厨房を担当する者たちに杖罰を加えた。 伏連は積年の賜物を蔵に別庫を設けて、侍婢1人を派遣して管理していた。伏連が庫に入って検閲するたびに、必ず「これは官の物であるので、使用することができない」と妻子に語っていた。こうして賜物を記録して、官府に提出していた。
※この「逸話・人物」の解説は、「厙狄伏連」の解説の一部です。
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逸話・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/04 14:53 UTC 版)
斎藤利治は生涯、側室を迎い入れず、正室院のみ妻とした。佐藤忠能への恩義と夫婦仲がとてもよかったと云われている 。 軍記物で「正室院は紀伊守の息女にて則ち新五の正室なり。」との記載があり、戒名は正室院等源妙覚大姉である。 加治田衆家臣団が斎藤利治中心によくまとまったのも、正室院との繋がりも一因であるとされる。
※この「逸話・人物」の解説は、「正室院」の解説の一部です。
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逸話・人物
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羅含が若い頃、昼寝をしていたところ、1羽の文彩(模様と色彩)あでやかな鳥が口中に飛び込む夢を見た。驚いて飛び起きてそのことを話すと、朱氏が「鳥に文彩(文才)あるは、なんじ後に必ず文章あり」と説いた。このことがあってから後、羅含の文章の才能は日増しに新しいものになっていった。 羅含の父は新淦県の宰をつとめたことがあり、新淦出身の楊羨が荊州の州将となると、羅含を主簿として招いた。羅含は傲然として応じなかったが、楊羨が招聘を繰り返してやまないので、断り切れずに就任した。楊羨が職を辞職して故郷に帰るとき、羅含は楊羨を新淦まで送っていった。新淦の人は羅含が以前の県宰の子であることから、みな賄賂を贈ってきたが、羅含は咎めずこれを受け取った。帰るときに賄賂には全て封をして、その場に置いて立ち去った。 江夏郡太守の謝尚は、羅含とともに世俗の外の世界を好んでおり、「羅君章は湘中の琳琅と謂うべし」と評した。 桓温は羅含を謝尚のもとに派遣して、取り調べさせたことがあった。羅含が謝尚のところに着くと、仕事を放りだして、謝尚と連日飲み明かして帰った。桓温が取り調べのことを訊ねると、羅含は「公は謝尚のことをどのような人物と思われますか」と逆に訊ねた。桓温が「我に勝る人物である」と答えると、羅含は「どうして公に勝る人物の行いに非がありましょうか。問う必要のないことです」とはぐらかした。桓温はその問答を面白がって羅含を責めなかった。 羅含が荊州別駕となると、役所が騒がしいことから、城西の池の小洲の上に茅ぶきの小屋を立て、木を伐って木材とし、葦を織って席を作って座り、粗衣粗食で平然としていた。桓温が属僚たちと宴会を開くと、羅含は遅れてやってきた。桓温が「これはどのような人か」と衆座の人々に訊ねると、ある人が「荊楚の材と謂うべし」と答えたので、桓温は「これは江左の秀であって、どうして荊楚のみに限ることがあろうか」と言った。
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逸話・人物
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之才が幼年のとき、従兄の徐康造とともに周捨の邸で『老子』の講義を聴いたことがあった。周捨が食事を用意すると、「徐郎は義を思うに心を用いず、ただ食事に用いられますのか」と戯れにいうと、之才は「けだし聖人はその心を虚にしてその腹を実とすると聞きます」と答えた。周捨はこれに感心した。 之才が太学生のとき、劉孝綽・裴子野・張嵊らと『周易』や『儀礼』喪服篇について議論した。その応酬は響くがごとくで、「これ神童なり」とみなを感嘆させた。 劉孝綽は之才について「徐郎は燕のような頷をしており、班定遠(定遠侯班超)の相がある」といった。 丹陽尹の役所が火災に遭ったとき、之才は夜間に衣服を着ず、紅布をまとって部屋を出て見物しているところを、袁昂に見られた。功曹は之才を免職させたいと上申したが、袁昂は之才の才能を重んじて、特別に原職のままにとどめた。 之才は若くして天文を学び、図讖の学問を修めた。館客の宋景業とともに吉凶を調べて、午年(550年)に必ずや易姓革命が起こり、高徳(高氏)による政治が開かれると知った。高洋はこれを聞いてたいへん喜んだ。このころ婁昭君や東魏の勲貴の臣たちはみな西魏の宇文泰が天子を擁して諸侯に号令するのを恐れており、先行して革命することはできないと考えていた。之才はひとり「千人を追放しても、一人の天子を得たなら、人々は休息することができる。大業を定めるべきで、軽薄な学者の意見を容れるべきではない」といった。 562年(大寧2年)春、武明太后が再び病にかかった。之才の弟の徐之範が尚薬典御となっており、武成帝の命を受けて診察した。内史は太后のことを石婆と呼んでいたが、俗忌に触れるとしてこのとき呼び名を改めた。徐之範がこれを怪しんで兄に相談すると、之才は字義を読み解いて4月中の異変を予言した。はたして4月1日に太后は死去した。 武成帝には親知らずが生えていたことから、医者たちにこれを訊ねた。尚薬典御の鄧宣文がまともな返答をすると、武成帝が怒ってこれを鞭打った。後に之才に訊ねると、之才は「これは智牙でありまして、智牙の生える者は聡明で長寿なのです」と答えたので、武成帝は喜んで之才に褒美を与えた。 568年、武成帝は酒色の度を過ごしていたため、空中に観音の幻影を見るようになった。之才が薬湯を処方すると、回復の兆しを見せたが、和士開の策動により之才が兗州刺史に転任すると、武成帝の容体は悪化した。10月8日に之才を召還する命令が下ったが、10日に武成帝は死去した。之才が到着したのは11日のことであった。 左僕射の官が欠員となると、之才は「わたしが禹の治績を復興できる」といった。 之才が僕射であったとき、「わたしは江東で徐勉が僕射になったのを見たが、かれにおもねらない朝士はいなかった。今わたしは徐僕射となったが、誰ひとりわたしにおもねろうとはしない。何を生き甲斐とすべきだろうか」と人に語った。 之才の妻は東魏の広陽王元湛の妹であり、之才が高澄に膝を屈して妻に求めた女性であった。和士開がこれを知ると、之才の妻を犯した。之才は和士開と会うのを避けるようになり、退いて「少年にふざけ笑いをさせまい」といった。 之才は和士開や陸令萱の家族が病に苦しむと、その救護に尽くした。 之才は祖珽を恨んで「子野(師曠の字)、我を沙汰す」といった。祖珽が眼病にかかると、このため師曠に喩えられた。 ある人が足の腫れあがる病にかかったが、医者たちには対処できなかった。之才がかれを診ると、「蛤の精の病です。船に乗って海に入り、脚を水中に垂らすとかかります」と診断した。患者が「実際にかつてそのようなことがありました」というと、之才が手術すると蛤2匹が見つかり、ニレの実のように大きくなっていた。
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逸話・人物
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元吉が生まれたとき、竇夫人は元吉の容貌を嫌って取り上げず、侍媼の陳善意が乳母となって育てたと言われる。少年時代の元吉は、つねづね奴隷や婦妾たちを駆り立てて戦争ごっこをやり、死傷者が出るほどであった。のちに元吉も負傷したので、陳善意がこの遊びをやめさせたところ、元吉は怒って、壮士に命じて陳善意をひしぎ殺させ、慈訓夫人の私諡を贈った。 劉武周が汾州・晋州を攻略すると、李淵は右衛将軍の宇文歆を太原に派遣して守らせた。元吉は鷹や狗を好み、いつも網を載せた三十の車を出して、「わたしは三日食わないことはできるが、一日でも猟をしないことはできない」と言っていた。夜は民家に出没して淫行を重ね、府門は閉じられなかった。宇文歆はうるさく諫めたが、容れられなかったので、「斉王はたびたび竇誕とともに狩猟に出かけ、民の田畑を踏み荒らし、側近も略奪をほしいままにするので、畜産も絶えてしまいました。道すがら弓を射かけて、人が矢を避けるのを見て楽しみとしています。百姓の恨みは甚だしいもので、とてもともに守ることはできません」と李淵に報告した。李淵は宇文歆を召還した。 特に槍術に優れており、槍術の達人であった尉遅敬徳と勝負したエピソードが伝わる。 左車騎将軍謝叔方は直属の将である。
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逸話・人物
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伊深佐藤氏であり、旗本二代目伊深の領主となる。又多くの普請事業を行った。 伊深領主となった時、関山国師の遺跡を復興し、伊深正眼寺を中興した功労者である。 墓地は、岐阜県美濃加茂市伊深町にあり、本堂左山中に墓と御霊屋がある。宝蔵には佐藤家縁の甲冑や古文書が納められている 。 正眼寺には、成次の「佐藤吉次公坐像」が保存されている。
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逸話・人物
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盧元明は若いころ、郷里から洛陽に帰る途中で相州刺史の中山王元熙のもとを立ち寄った。元熙は「盧郎は風采が神がかっているので、離騒を誦して、美酒を飲めば、おのずとよい器となるだろう」と言って感心した。 盧元明がある夜にみた夢の中で、潁川に住む友人の王由が酒を携えて元明のもとにやってきて別れを告げ、詩を賦して贈ってきた。目を覚ますと、その詩のうちの10字を覚えていて、「自茲一去後、市朝不復遊」というものであった。元明は「王由は俗世間に合わない性格で、人々のあいだを渡り歩いて寄宿してきた。いまこのような夢をみたのも、必ずや彼にゆえあってのことに違いない」と言って嘆いた。3日経つと、はたして王由が反乱兵に殺害されたとの報が伝えられた。まもなく、王由が亡くなった日が夢を見た夜であったことが判明した。 盧元明はあまり交遊しなかったが、酒を飲んで詩を賦すことを楽しんだ。玄理を好んで、『史子新論』数十篇を作り、その他の文章はまた別に文集に採録した。 盧元明は三たび妻を迎えた。2番目の妻の鄭氏は、鄭厳祖の妹であった。李神儁も彼女と結婚しようとして2人で争いになり、鄭厳祖の玄関の前で殴りあいの喧嘩をした。結局、鄭氏は元明と結婚したが、元明の兄の子の盧士啓と私通した。しかし元明は離縁することができなかった。
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