ぎょう‐せき〔ギヤウ‐〕【行跡/行×迹】
こう‐せき〔カウ‐〕【行跡/行×迹】
行跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 17:27 UTC 版)
その伝歴は不明であるが、俗語を用いて仏理を交えた平易な教訓詩を多数遺した、とされる。古くより、伝説的な要素が強く、仏理に達した人であると考えられていた。その詩は、仏教の因果応報や諸行無常の教理を、現実の生活に即して説いたものであり、その作者像として想定されるのは、街巷や山郷などを遊方して回り、説教した遊化僧のそれである。 詩集は、9世紀までには日本に伝来しており、『日本国見在書目録』にも著録されているが、宋代には散佚していた。20世紀初に発見された敦煌文献中に、それが含まれていた。その内容は、寒山・拾得の詩と共通点を持つ。
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行跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 17:00 UTC 版)
南朝梁の慧皎の『高僧伝』巻10には「宋京師杯度伝」として立伝され、数々の俗間における神異の行跡が記録されている。 初めて北方から都の建康の近郊に現われた時は、年恰好が40歳位であって、索を帯にし、襤褸をまとった姿は殆ど半裸であったという。その言動は不可解なもので、喜怒哀楽の差が激しかった。ある時は結氷した川面で沐浴を行い、ある時は履をはいたままベッドに上がり、裸足で往来を行き市場に出入りしたという。背には葦製の籠一つを背負って他には何も持っていなかった。また、後趙の国師となった西域渡来の僧で、『高僧伝』巻9の「神異篇」筆頭に記される仏図澄の持律堅固な生活とは対照的に、杯度の場合は、持斎に関しては鷹揚な態度で、酒を飲み肉を食べることを厭わず、葷辛に関しても遠ざけることがなかったという。 その最期も、『高僧伝』では広州や交州の方面に向かうという杯度自身の言葉を最後に不詳としており、その直前には、428年(元嘉5年)の、尸解に類した逸話を収録している。
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