斎藤利治とは? わかりやすく解説

斎藤利治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/14 08:58 UTC 版)

斎藤 利治(さいとう としはる)は、戦国時代武将斎藤道三の末子といわれる。通称は新五郎、新五。は、長龍長竜利興ともいわれるが、『竜福寺文書』『宇津江文書』によれば利治が正しいとされる[11]


注釈

  1. ^ 「娘は斎藤利三の息子に嫁がしたという」[10]
  2. ^ 谷口克広は、忠能の養子になったのは信じがたいが、加治田城を譲られたのは確からしいとする[11]
  3. ^ 軍記物には、「古郷に残す妻や子に名残り惜しまれ、恩愛涙尽きぬは帰らぬ旅の首途と、後にや思ひ合わすらん、また夜をこめて進発すとある」[53]
  4. ^ 譲り状の「児まいる」とは、道三の子供で京都で主家した人物であるが、長良川の戦い直後の書状であり、利治が織田家に寄した前後の時期である利治へ譲り状を渡し、信長へ直接渡した可能性の方が高い。それにより、利治(新五)が信長と濃姫により、斎藤家跡取として一所懸命地を宛て行い、元服式も行っている。
  5. ^ 新知扶助分 百貫文(関市市平賀)弐捨五貫文(富加町川小牧)四捨八貫文(富加町大山)百四捨参貫文(関市肥田瀬)百貫文(富加町夕田)弐捨貫文(美濃加茂市加茂野町鷹之巣)弐百弐捨貫文(富加町加治田・絹丸)四百七捨貫文(関市吉田)五百弐捨捨貫文(武儀郡上之保村、武儀町)七捨貫文(益田郡金山町)六捨八貫文(加茂郡白川町坂之東)百五捨貫文(関市上下迫間)・梅村良澤二扶助都合弐千百八捨四貫文
  6. ^ 信長より武儀郡から加茂郡にかけての地13ヵ所、計2,184貫文を宛がわれている(備藩国臣古証文)。佐藤忠能の養子となり、家臣団も利治に従っている。
  7. ^ 月岡野の戦い』利治を軍団長として濃尾の兵を率いている。また、坂井越中守森長可佐藤秀方等が援軍として越中戦線に送られている。
  8. ^ 斯波義統の子である毛利長秀等を中心とした部隊が月岡野の戦いで、越中戦線へ派遣された。
  9. ^ 親族の姉小路頼綱飛騨国統治している。また、飛騨国出入口の要所である加治田城を中心とした領土を治めている。月岡野の戦いにおいても、飛騨国人衆の支援を受け、援軍にも加勢している。
  10. ^ 姉小路頼綱の妹が正室に嫁いでいる越中斎藤氏の斎藤信利斎藤信吉越中国国人衆を味方にした事と、神保長住の国衆達も斎藤利治軍団と共に戦っている。富山市円光寺が斎藤利治の墓所の一つとなっている。娘の蓮与の病気を治した的場の清水の地があり、利治との由縁や国衆との関わりは深い。

出典

  1. ^ 紀伊守従五位下佐藤忠能正統養子地位国人衆後継者
  2. ^ 斎藤道三正統後継者としての山城守 官位継承とも
  3. ^ 兄である斎藤利堯玄蕃の従五位下以上の官位が授与された可能性が高い
  4. ^ 治部大輔左京大夫美濃守
  5. ^ 斎藤義龍の官位である治部大輔左京大夫従四位下)、美濃守と同じか、信長と信忠の絶大な信頼と立場(地位)官位授与は本能寺の変後がなかった織田政権後と考えられる。
  6. ^ 斎藤利治は自ら官位を一切求めていない。孤高であり誰もが尊敬・認知する人物とされる
  7. ^ 「斎藤新五夫婦、龍福寺(此寺)に葬とあり」。富加町史編集委員会 1975, p.720
  8. ^ 『堂洞軍記』 「斎藤新五郎跡目之事」
  9. ^ 「斎藤市郎左衛門と同一人物とされている」
  10. ^ a b 和田 2019, p. 164.
  11. ^ a b c d 「斎藤利治」『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、188 - 189頁。ISBN 9784642014571 
  12. ^ 「合戦の最中に斎藤道三が信長へ認めた(したしめた)美濃国譲り状を利治が信長へ直接渡したとされている」
  13. ^ 『総見記』『富加町史下巻』「第七節 加治田城主斎藤新五」
  14. ^ 『堂洞軍記』「関加地田軍之事」
  15. ^ 『堂洞軍記』 「関城攻之事」
  16. ^ 「佐藤忠能の養子となり、正室院を一人正室とし、二代目加治田城主となり、親衛隊加治田衆家臣団を率いる美濃斎藤家跡取りとなった」
  17. ^ 堂洞軍記
  18. ^ 太田牛一信長公記』 巻二「阿坂の城退散の事」
  19. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻三 「たけくらべ・かりやす取出の事」
  20. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻三 「野田福島御陣の事」
  21. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻五 「交野へ松永取出仕り侯て追払はるゝの事」
  22. ^ 新五の活躍については、軍記物にて「諸人耳に目を驚かせり」とある。
  23. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻六 「真木島にて御降参、公方様御牢人の事」
  24. ^ 『富加町史下巻』「二 新五の戦歴」
  25. ^ 『富加町史下巻』越前の朝倉を討伐、義景は城に自殺。この戦に、信長に美濃を追われて朝倉を頼っていた斎藤龍興は刀根山で戦死し、ついで浅井氏を小谷城に攻め長政は自殺した。この戦に新五も従軍
  26. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」
  27. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十 「柴田北国相働くの事」
  28. ^ 「書状ならびに鈴木越後から口上の趣聞き届けた。敵、河田長親は太田面へ(中略)この時打果すようにせよ。重ねて毛利河内守や坂井越中、森勝蔵以下の助勢を派遣するから、これらとよく談合してやること、つぎに斎藤次郎右衛門は殊の外忠義をつくす由、誠に感心の至りであるからいずれ感状を届けるであろう。すべて神保越中守長住とよく談合してやることが大切である。なお、使の鈴木越後守から申し伝えるであろう。斎藤新五殿 信長朱印」
  29. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十一 「小相撲の事」
  30. ^ 「注進の趣読んだ。去る四日敵の河田豊前や椎名小四郎らが組んで出て来たのを、一戦に及んで切崩し、三千余人を討捕ったとの事、誠にりっぱな働きで比類なき戦功である。感心の至りで、天下の評判である。いよいよこれからも戦功を励むことが大切である。天正六年十月十一日 斎藤新五殿 信長印」
  31. ^ 「尚久。寒天の分ご苦労の段とお察しする。(中略)尚これから加勢のため毛利河内守につけて森勝蔵・坂井越中守・佐藤左衛門の諸将を派遣する。いずれ重ねてお知らせする。よい注進を待っている。天正六年十月十二日 斎藤新五殿 信忠印」。富加町史編集委員会 1980, p.231-232
  32. ^ 「注進の趣委細聞き及んだ、そちらの戦場での見事な働き誠に心地よく、天下の評判も殊の外よろしい。(中略)加勢に行った者とも相談し、急ぎ着陣せよ、神保越中守に後のことよく談合すること。天正六年 信長印 斎藤新五殿」。富加町史編集委員会 1980, p.232
  33. ^ 軍記物にて「河田ら猿君野と云える平場へおびき出し、さんざんに勇闘し、即時に切り崩す。(中略)恐懼して浜辺の士、多く斎藤に属するの間、人質を取堅め、神保安芸に預け置き、帰国せしに戦功を感美せらる。」とある
  34. ^ 森田柿園「越中志徴」「月岡野に大なる首塚あり。土人は之(これ)を庚申塚(こうしんづか)、行人塚など呼ぶと云(い)へり」
  35. ^ 「此外班々勇武記するに遑あらず諸記に明けらけし」南北山城軍記
  36. ^ 今後、天下布武においての役と後の役職で多忙の事を考えての信長・信忠の休養命令である(『富加町史』上巻 史料編 p.722)
  37. ^ 「利治は病気であり、信長・信忠に心配され、御供を外されていたが、利治は病気を治ったとし、深夜密かに出発し、岐阜城留守居である兄の斎藤利堯へ寄らずに通り過ぎ、安土城にいる姉である濃姫へも立ち寄らず、信忠御陣である二条城へ本能寺の変前日に合流した。」南北山城軍記
  38. ^ a b 富加町史編集委員会 1980, p.232
  39. ^ 「利治は病で加治田城において静養していると考えていたようであるが、二条新御所において見事な防戦(奮戦)をしているのを確認し、降伏勧告をしたとされるが、利治は忠死を選んだ。」
  40. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十五 「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」
  41. ^ 南北山城軍記「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」
  42. ^ 富加町史編集委員会 1980, p.227
  43. ^ 「加治田の佐藤紀伊守」『美濃加茂市史』 通史編、美濃加茂市、1980年、273頁。 
  44. ^ 『新撰美濃志』『南北山城記』『美濃国諸旧記』『平井家の系譜』『富加町史下巻』
  45. ^ a b 富加町史編集委員会 1980, p.229
  46. ^ 『南北山城軍記』
  47. ^ 富加町史編集委員会 1980, p.245
  48. ^ 富加町史編集委員会 1980, p.233
  49. ^ 「天正6年(1578)天下統一の大志をいだく織田信長は、越中の豪族を授けて上杉勢を駆逐するため、部下の勇将斎藤新五を飛騨から越中につかわした。新五は太田庄本郷に砦を築いて、常願寺川を渡る上杉勢に備えた(中略)たまたま、新五のまな娘が皮膚病にかかり医薬の効果もないので、刀尾権現に祈願したところ、21日目の満願の夜、権現が重藤の弓・白羽の矢を携えて新五の枕元に現れ、丑寅の方角に射た矢を探して抜けば、薬水が湧き出て百病に効くと告げた。的場の老杉のもとにこんこんと湧く泉を発見し、これによって娘の病も治った。刀尾権現の本地は不動明王であるといわれている。平成14年 富山市」
  50. ^ 富加町史編集委員会 1975, pp.723-724
  51. ^ 利治は本能寺の変が起こる1日前に加治田城から二条城へ移動しており、明智勢が全くいなかったことが一つの理由である
  52. ^ 南北山城軍記 斎藤新五を為忠能婿付稲葉山城之事
  53. ^ 富加町史編集委員会 1975, p.772.
  54. ^ 『富加町史』通史編 紀伊守の戦歴と人物 佐藤氏系譜 p.208-210
  55. ^ 『富加町史』上巻史料編 記録部 軍記物 p.720~722
  56. ^ 富加町史通史編 一加治田・兼山合戦 1加治田の状勢 234P
  57. ^ 永禄11(1568)年上洛を果たし、朝廷より官位を勧められたとき、信長公は生死をともにした功臣の賞を第一に願い出ておられます。そこでこの信長公のご意思に基づき、神社創建の折(中略)最も著名な事蹟を綿密な時代考証の元に描写し製額して拝殿に掲げることとなりました。」
  58. ^ 軍記物「君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」との記載や、佐藤忠能の養子となり娘の正室院を一人妻とし、夫婦仲も良かったと伝わっている。姉も信長の正室濃姫であり、親族の姉小路頼綱飛騨国を治めており、加治田城は飛騨の要所でもあった
  59. ^ 軍記物 南北山城軍記
  60. ^ 「月指集」
  61. ^ 「天下の覚え、しかるべく候」「まことに比類なき仕合せ、大慶せしめ候」信長・信忠からの感状
  62. ^ 富加町史下巻通史編 斎藤新五
  63. ^ 「加治田城城下町において白華山清水寺入口住居にお招きした宮内卿平井信正との繋がりも大きい」
  64. ^ 月岡野の戦いでも共同軍と支援や、朝廷との関係、街道位置、美濃斎藤家・姉小路家・織田家との親族大名関係である」
  65. ^ 嫡男・織田信忠の信頼も揺るぎない
  66. ^ 姉小路頼綱とは友であるし、正室は斎藤道三末娘の姉小路頼綱正室であり、末子利治との関係は絶大である
  67. ^ 姉小路頼綱は利治の行軍を支援しつつ、すぐに援軍として自ら月岡野の戦いに織田家同盟軍織田氏美濃斎藤氏親族として参陣する」
  68. ^ 「黄微古簡集」「備藩国臣古証文」「信長公記」
  69. ^ 「記録御用所本古文書」
  70. ^ 「第一章天下布武の家臣団 信忠軍 斎藤利治 信長に寵愛された道三の末子」『信長の家臣団と光秀対秀吉』スタンダーズ、2020年。 
  71. ^ 「天正一〇年六月二日の払暁、明智光秀勢は本能寺の殺到し、信長はあえなく四九才で自決、妙覚寺に居た信忠は二条城に移って防戦したが多勢の前には敵すべくもなく信忠自刃、そのあと新五はよく防いだが遂に一族の斎藤内蔵助利三に攻められ、主を追って討死(忠死)した」富加町史下巻通史編 四 新五の最後
  72. ^ 「然し留守は斎藤利堯により守られた」
  73. ^ 「斎藤利堯は新五の伯父にあたり、岐阜城主織田信孝の家老として勢威があった」
  74. ^ 富加町史下巻通史編 第八節 本能寺の変後の当地域の状勢 234頁
  75. ^ 「信長公記」
  76. ^ 「越中進出は成功のうちの終わった。これは新五一生のうちの最も華やかな戦歴であった 富加町史下巻 三 新五越中に進出 231-232頁」
  77. ^ 「加治田城状勢 234頁」
  78. ^ 「東海の名城を歩く 東美濃の重要拠点と城下町 加治田城」 140-133頁
  79. ^ 「相模佐藤氏」
  80. ^ 「富加町史 六 中濃地区及び県外における佐藤氏 222-226頁」
  81. ^ 「第五節 蜂屋堂洞城主岸勘解由信周 200-207」
  82. ^ 「遊撃隊司令官以外では、濃姫の実弟としての立場と、加治田衆統率する大名、信長の義弟、信忠の叔父、親族・国司大名姉小路頼綱との外交や飛騨衆と越中衆、美濃衆と尾張衆との深き繋がりがある」
  83. ^ 「富山県編『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県」
  84. ^ 「『信長公記』(巻十一)曰く、「九月二十四日、齋藤新五、越中へ被仰付出陣國中、大田保之内つけの城、御敵椎名小四郎、河田豊前守人数入置候。尾張両国之御人数打向之由承及聞落に致退散則つけの城へ神保越中人入置齋藤新五三里程打出陣取候て在々所々へ相働」、また曰く、「十月四日、齋藤新五、越中国中太田保之内本郷に陣取御敵、河田豊前守、椎名小四郎、今和泉に楯籠候。城下迄放火候て未明より被罷退之処に人数を付候。齋藤新五、節所へ引かけ月岡野と云所にて人数立合、既及一戦追崩頸かす三百六十討取り、此競を不休懸まはり所々人質執固神保越中所へ相渡し帰陣候也」
  85. ^ 富山市菩提寺円光寺へは亡骸の一部(髪の毛・持物)が飛騨国姉小路頼綱を通して送られた。
  86. ^ 龍福寺には数多くの墓地が敷地内の入口から山奥まであり、その中に斎藤利治と正室院の墓地があるとされている
  87. ^ 甲州征伐は織田信忠軍団総主力部隊、後に続く織田信長総主力部隊が武田攻めに出向いており、本国においては絶大な信頼できる斎藤利治に留守居を任じ、不測の事態に対応する遊撃隊軍団司令長官任(加治田城にて休養)を命じている
  88. ^ 家老である佐久間信盛や織田家重臣は後れを取り、合戦後に叱咤されている
  89. ^ 信長の同盟国であった義弟・浅井長政よりも絶大な信頼と共に深き一門衆としての立ち位置大名の立場である
  90. ^ 富加町史下巻通史編一 - 1加治田の状勢234頁
  91. ^ 「森氏軍記」
  92. ^ 岐阜県史 森氏(織田家森氏)に対して三倍にあたる勢力であったといわれる
  93. ^ 富加町史下巻通史偏 一 加治田・兼山合戦 234頁


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