加治田城攻城戦
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加治田方は、弓・鉄砲の者1,000人を二手にわけ、加治田城西大手口絹丸は斎藤利治と佐藤忠能嫡子忠康の両大将で固め、裏の東北は忠能が守備した。 長井勢は一丸となって、絹丸の捨堀(現在の絹丸橋の北方)に押し寄せた。ここで戦闘になる中、忠康は馬に乗って指揮をとっていたが、敵の矢をうけ討死し、加治田方の旗色が悪くなった。その時、加治田勢より、湯浅讃岐が名乗りを挙げ、槍を奮って長井勢に駆け入り突き崩して、肥田瀬の川端(津保川)まで追いつめて加治田方を勝利に導いた。戦の後、斎藤利治は戦功を賞して自分の名(新五)の一字を与え、湯浅新六と名乗らせ、賞として刀を与えた。 東からは、杉洞峠を越えて肥田忠政が押し寄せた。佐藤忠能と川浦川辺りで戦闘となる。関軍が戦に負け引退くと、佐藤忠能が自ら真っ先に進みで、4、5度戦い、肥田勢いを川浦川天然の堀にて追い返し、加治田城東北からも勝利する。(この合戦で南北山城軍記では、肥田忠政が討死したと記載があるが影武者の可能性が高いと考えられる。)
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加治田城攻城戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:13 UTC 版)
翌7月4日、斎藤軍は利堯を総大将として決戦する事となり、加治田城の本丸山頂には拠らず、麓の上之屋敷の屋敷城を利堯本陣として森軍を迎え撃つ作戦を決め、東の山に家老長沼三徳が守備する三徳櫓、西の山には西村治郎兵衛が守備する砦で本陣を囲み、川浦川を天然の堀として三徳の嫡子長沼藤治兵衛に守備させ、東の白華山清水寺口には白江権左衛門、西の絹丸捨堀には湯浅新六などを配置して、総勢1,700余人で防備を固めた。 これに対し森長可は、夕田から滝田に出て川浦川対岸の檜山に本陣を置いたと推定され、全軍で中央突破をすると同時に、三徳を川浦川までおびき出す作戦をとった。長可がまず真屋新助らの率いる500余人の別働隊を、上町の対岸から強行渡河させると、藤治兵衛の兵100余人が山を下りて川岸に進撃し、それに呼応して利堯本隊300余人も合流した。森軍は次に林為忠らの率いる500余人の本隊先陣が渡河し、三徳の陣に進撃した。激戦になる中、長可が陣頭に立って川に馬を乗り入れ、本隊は下流の渡河に成功した。 森軍は藤治兵衛の部隊を全軍で攻撃し、長沼勢は支えきれずに三徳櫓へ押され、城下町は森軍の放火により燃え広がった。両軍必死の激戦が行なわれ、斎藤軍は混乱に陥り、藤治兵衛は黒の駒に打ち乗って諸卒を励ましながら防戦していたが、森軍の放った銃丸に胸板を打ち抜かれて落馬し、郎党にかかえられて三徳櫓へ運ばれるも絶命した。しかし、大将の利堯が各所に分かれている部隊を本陣に集め、森軍を囲むように攻め立てると、優勢だった森軍は次第に川向こうへ押し返された。 ここで、『堂洞軍記』によれば、斎藤軍より直井太郎左衛門が一騎討ちを呼びかけると、森軍の真屋新助がそれに応え、戦いの末直井が真屋の首を取ったという。こうして前半に森軍が勝っていた合戦は、後半になって斎藤軍が盛り返し、引き分けとなって森軍は落合藤衛門を殿軍として引き上げたとされる。 一方、斎藤軍が兵を分散した作戦は全くの失敗で、森軍に中央突破されたため惨敗して全軍は散乱。三徳櫓の攻略は本城陥落に値するもので、森軍は兵のいない空虚な本城を攻撃する必要はなく、勝鬨を挙げて凱旋したという見方もある。 他の軍記物では、斎藤軍が盛返し、森軍が本陣の堂洞城跡へ引返し、軍を集めている所へ、斎藤軍諸将が三方より攻上げ、森軍は南の谷へ崩れ落ち、戦うこと三度、森軍は多く討たれ金山へ軍を引き、斎藤軍(加治田衆)勝軍との記録がある。
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