加治田・堂洞合戦(堂洞合戦)
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「中濃攻略戦」の記事における「加治田・堂洞合戦(堂洞合戦)」の解説
中濃要害堂洞城で長井道利と岸信周は信長軍を堂洞城へ誘い込み、佐藤忠能の加治田衆と長井道利の関軍、援軍の斎藤龍興本陣により、壊滅を図る(加治田・堂洞合戦(堂洞合戦))。信長本隊は兵を北へ進め、岸信周が守る堂洞城を包囲する。しかし、佐藤忠能と加治田軍(加治田衆)が織田軍へ内通する。それを知った岸方は、人質の八重緑を串刺しにし、長尾丸に磔にする。その夜、加治田軍の古参である西村治郎兵衛が八重緑亡骸を岸方から闇討ちにより奪い取り、龍福寺へ葬る。 関城長井道利と堂洞城岸信周は逆に加治田城を包囲し、龍興軍率いる本陣が到着後に中濃要所である加治田城(加治田衆)を占拠する作戦に出る。信長は加治田衆から連絡があり、援軍の織田軍は直ちに信長自ら総大将として指揮し、堂洞城合戦に赴く。味方であり、藤原氏の一族である加治田衆が寝返った中、岸一族は、孤軍奮闘した。長井道利は織田軍の活発な動きにより軍が堂洞城へ達せず、本陣の龍興は後に参陣予定であった。堂洞城は多勢に無勢で力尽きたが、岸信周は18度も敵兵を追い返した後、本丸に引き奥方と共に自刃した。堂洞城は焼払われ落城後、廃城となる(後に加治田・兼山合戦において、森長可軍の本陣として使用される。現在でも天守付近より焼けた米が出土する)。
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