関・加治田合戦
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関・加治田合戦(せき・かじたかっせん)は、1565年(永禄8年)8月から9月に長井道利・肥田忠政と斎藤龍興勢援軍(斎藤勢)、斎藤利治勢援軍(織田勢)・佐藤忠能・佐藤忠康・加治田衆との間で行われた合戦である。
- ^ 富加町史編集委員会「堂洞合戦 信長帰陣」『富加町史』下巻 通史編、岐阜県加茂郡富加町、1980年、198頁。
- ^ a b 富加町史編集委員会「堂洞合戦 関・加治田合戦」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、198 - 199頁。
- ^ 「梅竜寺山(115.3m)、一ツ山(95m)、十六所山(146m)といった小山が並び、これらの低山には砦があった。」
- ^ 『羽淵家系図』
- ^ a b 富加町史編集委員会「堂洞合戦 関 落城」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、199頁。
- ^ 信長の美濃平定後の関の最有力者。後妻が佐藤忠能の舎弟の娘で、忠能の子忠康と昌信に二人の娘を嫁がせている(関市教育委員会「関城の落城」『新修 関市史 通史編 自然・原始・古代・中世』関市、1972年、844 - 848頁。)
- ^ 関市教育委員会「関城の落城」『新修 関市史 通史編 自然・原始・古代・中世』関市、1972年、844 - 848頁。
- 1 関・加治田合戦とは
- 2 関・加治田合戦の概要
- 3 書籍
関・加治田合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 15:37 UTC 版)
斎藤道三の末子・斎藤利治が名目で堂洞城を攻略し、信長率いる織田軍は、加治田城御殿屋敷で一泊し、翌日岸方の首実検を行い、犬山へ帰陣した。その途中、長井道利率いる関軍と到着した斎藤龍興率いる本隊三千人以上織田軍に襲いかかった。信長軍は手勢七百人足らずで、岸軍の働きにより、怪我人や死傷者が出ていて戦える状態ではなかった。織田軍は広野へ退き、龍興と対陣。かかるようにみせかけて、怪我人を逃し、最後は自ら急ぎ引き上げた。斎藤軍は織田軍があっけなく退却したので、斎藤龍興本陣は岐阜城へ戻る。その後、長井道利は竜興援軍の一部と米田城城主肥田忠政と共にを率いて加治田城へ攻め寄せる構えをみせた。関・加治田合戦により加治田城攻城戦において大軍をもって長井道利ら関勢が加治田城へ斎藤軍援軍の一隊と共に、西側より一丸となって攻めてかかった。織田軍援軍の利治が総大将と加治田衆である湯浅新六の活躍により、優勢であった関軍(斎藤勢)は突き崩され敗退する。東からは肥田忠政が攻め寄せたが、関軍敗退後、佐藤忠能が天然の掘である川浦川の激戦を制し、肥田勢追い返し勝利した。利治の要請により加治田軍と織田軍は東・西・南から関城を直ちに攻め、長井道利はその後関城攻城戦において砦を謀略と伏兵で何とか防いだのだが、遂に龍興援軍が間に合わず退去し、関城を奪われ中濃地方も信長の勢力圏に入ることとなる。後に、西美濃三人衆も利治がいる織田軍に内通する。
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