関城攻城戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 02:04 UTC 版)
斎藤利治は加治田城で人馬を休め、この際関城を一挙に占領しないと後々まで美濃攻略のさまたげになるからと、信長に援軍の派遣を要請した。信長はその意見を受け入れ、急遽援軍を派遣した。 9月に入ると関城の攻略が開始され、利治は加治田勢を率いて東から、信長からの援軍は南と西から攻撃した。長井道利は関城の周りに築城した砦と策謀・謀略により防いでいたが、斎藤龍興援軍が間に合わず、ついに抗しきれず、関城を退去した。 道利が徹底抗戦しなかったのは、関城の堅固さが篭城には不充分だったこと、関に羽淵吉正(意休)などの信長への内通者がいたことが考えられている。
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