合戦に至る経緯
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信長の美濃侵攻に備え、関城長井道利、加治田城佐藤忠能、堂洞城岸信周の盟約が結ばれ(中濃三城盟約)、道利の勧めで忠能の娘八重緑を岸方の養女(人質)として結束が固められた。だが、忠能は加治田城下の住人梅村良澤を信長方の犬山に遣わし、丹羽長秀を介して内応。 鵜沼城、猿啄城が織田軍によって落城し、猿啄城将の多治見修理亮が甲斐へ逃走すると、敗兵は堂洞城に入って岸勢と合流した。 信長は金森長近を使者として堂洞城へ派遣し投降を勧めるが岸信周は受け入れず、嫡男岸信房は長近の目の前で自分の子(岸信近)の首を斬り落として覚悟を示したため、長近は引き下がった。 岸方が合戦の準備をする中、人質の八重緑は堂洞城に面した長尾丸山で磔にされた。その夜、忠能の家臣西村治郎兵衛が忍び、八重緑の亡骸を岸方から奪い取って加治田の龍福寺へ葬ったと伝わる。
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合戦に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 02:04 UTC 版)
永禄8年8月28日(1565年9月22日)に行われた堂洞合戦後、織田信長は加治田の佐藤忠能屋敷に一泊し、翌8月29日に加治田城下で討ち取った岸方の首実検を行った。それから犬山へ帰還途中、関城から長井道利が、井ノ口(岐阜)からの斎藤龍興援軍と合わせて3,000人余りで信長軍に襲い掛かった。信長の手兵は800ばかりで合戦は無理だったので、ひろ野に退いて体制を整え、かかるように見せかけておいて鵜沼へ退却した。道利が加治田に攻め寄せる様子だったので、信長は急遽、斎藤利治を主将として援軍5百を派遣した。
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合戦に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:13 UTC 版)
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長が死去した後、6月27日の清洲会議により織田信孝が岐阜城主となって美濃国を支配した。信孝は次第に反秀吉の態度を示し始めるが、西濃や東濃の諸将の多くは秀吉に加担した。鳥峰城主森長可も、始めは信孝に属して人質仙千代(忠政)を送っていたが、ひそかに人をやり忠政を奪い返して秀吉派につくと、本能寺の変後の混乱に乗じて、東濃・中濃を支配しようとした。長可は7月2日未明に鳥峰城の近隣にある肥田忠政の米田城(加茂山)を急襲した。肥田忠政は病を患っていた為、同夜に加治田城の斎藤利堯を頼って落ち延びた。長可はこれを聞いて「玄蕃(肥田忠政)は病気であるから意のままにならなかったであろう。また加茂山には地の利が無い。それにひきかえ、加治田は攻撃に備えて大きな川を背にして、城兵の勇気のためには利のあるところである。加治田の一か所にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる。長可は肥田忠政を追って織田信孝家老である斎藤利堯が城主を務める加治田城の攻略に向かった。 一方の斎藤利堯は弟・加治田城主の斎藤利治の留守居であり、本能寺の変当時は岐阜城の留守居でもあったと見られるが、変報を受けると岐阜城を掌握し、6月4日には美濃瑞龍寺・崇福寺・千手堂・西入寺に禁制を掲げている(瑞竜寺文書他)。その後、羽柴秀吉と信孝が明智光秀を討ち、6月20日ごろ京都を出立して美濃へ向かうと、利堯は国衆の人質を連れ、不破郡長松(現大垣市長松町)で引き渡しを行った。
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