合戦の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:32 UTC 版)
1542年(天文11年)名門土岐氏に替わって美濃の国主となった斎藤道三は、1554年(天文23年)に長男(庶長子)・義龍に国を譲り隠居した。しかし、道三はしだいに義龍を「耄(おいぼれ)者」と考えるようになり、その弟の孫四郎と喜平次を「利口者」だからと溺愛し、三男の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名乗らせた。長兄の義龍を差し置いて名門一色氏の姓と官途を与え、さらに2人の弟は奢り高ぶり義龍を侮るようになったため、道三と義龍の不仲は深刻なものとなった。弘治元年(1555年)10月、義龍は病に臥せる振りをして奥へと籠った。道三が自身を廃嫡し、寵愛する2人の弟いずれかを跡継ぎにするのではないかと考えた義龍は、対抗手段を取ろうと策をめぐらした。
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