合戦の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 15:24 UTC 版)
包囲された上杉軍部将の中条景泰はすぐに上杉景勝に救援を求めるが、越後国に接する信濃国及び上野国には、武田氏を滅亡させた織田軍がまだ駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が景勝の領内侵攻の姿勢をとったため兵を出せなかった。その代わり能登国の諸将、および赤田城主斎藤朝信や松倉城主上条政繁を派遣した。そして景勝は天正10年(1582年)5月4日に、自ら軍勢を率い春日山城を出発、5月19日には魚津城東側の天神山城に入り後詰の陣を張った。一方織田軍は5月6日に二の丸を占拠したため、景勝は戦を仕掛けられず、信濃国・海津城の森長可や上野国・厩橋城の滝川一益が越後侵入の態勢に入ったため、5月27日に退陣を決断した。その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から3ヶ月後の6月3日に落城を悟った山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱ら上杉方の守将13人が自刃して果て落城、織田軍が勝利した(落城の日には、既に織田信長は京で横死していたことに注意)。
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