合戦の性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 15:28 UTC 版)
この戦いは柴田勝家、滝川一益と羽柴秀吉、丹羽長秀の織田政権内での主導権争いであると同時に、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝の対立でもあった。両者の対立がそのような形をとったことは、戦国時代の幕府の政争が将軍の家督争いという形をとってきたことと相似する。そればかりか、勝家の場合は備後国鞆ノ浦(広島県福山市)にあって京都への帰還をもくろんでいた征夷大将軍足利義昭の擁立さえ試みていた。 この戦いで、一向宗の本願寺勢力は秀吉方に与力すると申し出ている。本願寺が加賀の一揆を動員して秀吉に忠節をつくすと申し入れてきたことに対して、秀吉はこれを賞賛し、柴田領の加賀・越前で活躍すれば加賀を本願寺に返還すると応えている。とはいえ、本願寺にそのような力は残っておらず、実際、勝家が一向宗残党を警戒した様子はない。
※この「合戦の性格」の解説は、「賤ヶ岳の戦い」の解説の一部です。
「合戦の性格」を含む「賤ヶ岳の戦い」の記事については、「賤ヶ岳の戦い」の概要を参照ください。
- 合戦の性格のページへのリンク